皓星社(こうせいしゃ)図書出版とデータベース

第32回 文芸春秋の第1回入社試験――小林英三郎と柳沢彦三郎と

河原努(皓星社・近代出版研究所)

 

■再審裁判の会報に載った入社試験の話

前回取り上げた築井健人の実弟が横浜事件(注1)に巻き込まれた元改造社の編集者・小野康人だったことから、この事件がらみの文書から情報が拾えるかもと、以前に南部古書会館で近代出版研究所が入手した「横浜事件会報1号(1986)~40号(2000)」というファイルを引っ張り出してきた。中に綴られているのは「横浜事件再審裁判を支援する会」の会報、40号まで欠号なしの揃い(【図1】)。小野と築井の関係を示す記述がないかと全てのページに目を通す。もちろん再審裁判の報告などが主だが、関係者が高齢となっており、たまに訃報や回想文が混じってくる。こういったものも人名事典の材料として重要なのだ。「運動系のものは苦手なんだよね~」という小林所長に翻意をうながし買ってもらってよかった(ちなみに本連載でよく名前が出てくる月の輪書林さんの棚で1000円でした)。
小野と築井の関係は見つからなかったが、これを読み進める中、No.33(1996年11月20日号)に、小野と同じく改造社の編集者として逮捕された小林英三郎という人物の訃報とその遺稿「私の体験的治安維持法物語②」が掲載されていた。この回想文の「ジャーナリストを志望」というパラグラフに次のような記述があった。

もともと漠然とはジャーナリスト志望で、大学で社会学を選んだり、新聞研究室に入った理由の一つもそんなところにあった。新聞社は一般公募のところが多く、機会も多かったので、幾つか入社試験も受けたが、どれも失敗して、最後に文芸春秋が残った。当時出版社で公募式の試験をやったのは、文芸春秋が初めてであったかもしれない。
最初文章を提出して、その中から選ばれたものが、第二次の筆記試験を受けた。これはお茶の水の文化学院の講堂で行われたが、三五○人くらいいたように思う。そのうち更に面接試験をして、何人か採用を決めるということだったが、結果を余り期待もせず日が過ぎた。ある日妹から手紙が転送されて来た。開けてみると文芸春秋の面接試験の通知であった。実は応募のとき住所を実際のところにせず、東京で別のところに住んでいた妹のところにしてあったのである。
慌てて内幸町の大阪ビルにあった文芸春秋社に駆け付けると、面接試験はもう始まっていた。会場は地下のレインボーグリルの一室だった。そっとドアーを開けると、中央の大きなテーブルの向う側に菊池寛、佐佐木茂索、菅忠雄、斎藤龍太郎など数人の幹部が並び、こちら側に面接を受ける五人が並んでいた。私を入れると六人だった。試験の内容については記憶が残っていないが、途中で菊池寛氏が、「この人は良いと思うよ」と言われたのを覚えている。
結果は六人共採用ということであった。社会学科で一緒だった柳沢彦三郎、戦後に社長になった池島信平、教育学科の江原謙三の諸君などいずれも東大文学部の出身者だった。〔以下略〕

【図1】「横浜事件再審裁判を支援する会」会報の綴り

 

注1 太平洋戦争中に特別高等警察(特高警察)によってでっち上げられた最大の言論弾圧事件で、中央公論社・改造社・日本評論社・岩波書店などの編集者30余人が相次いで逮捕され、拷問の末に数人が亡くなっている。

■池島信平と同期入社、小林英三郎という人

『出版文化人物事典』を編集中、文芸春秋3代目社長となった池島信平を改稿した際に『池島信平文集』に目を通したところ、彼が受けた入社試験の問題が出ていて「面白いな」と感心した覚えがある(これはあとで引用する)。『文芸春秋三十五年史稿』(文芸春秋新社、昭和34年)の年譜を見ると「昭和8年5月」の項目に「10日、初の社員公募入社試験を文化学院に於て行う。応募受験者総数700名。筆記、口答、人物試験等の結果、居長英三郎、蔵野克己、江原謙三、鈴木俊秀、池島信平、安藤彦三郎の6名入社す」とある。ここに出てくる「居長英三郎」が即ち、のちの「小林英三郎」である。改姓の経緯は、「横浜事件再審裁判を支援する会」会報のNo.39(1999.11.20)に掲載された妻・小林貞子の「夫・小林英三郎の思い出」という一文に記されていた(【図2】)。

当時主人は居長イチョウという姓でしたので、私は結婚したら居長貞子になるのだと思ってうれしい気持ちになっていましたが、居長イチョウ家(カワラを売っていた商家ですが)で働いていた小林という番頭さんに跡継ぎがいなかったので、急に主人は小林という姓を名のることになってしまい、その番頭さんには申しわけないけれど、私は何となく淋しい気持ちになったことを覚えています。

その後、小林は入社間もない昭和8年7月に治安維持法違反で初めて検挙される。11年12月の2度目の検挙は「合法的な形で仲間と研究所を作り雑誌を発行したのが、治安維持法違反に問われた」(注2)とのことで、「国立国会図書館デジタルコレクション」で「居長英三郎」を検索してもこの頃から『文芸春秋』に登場しなくなるため、この頃に文芸春秋社を離れたのだろう。『文芸春秋三十五年史稿』年譜にも退社の記述は見つけられなかった。
改造社には昭和14年3月に青山鉞治の紹介で入社したとあり、雑誌『大陸』編集部に配属される(注3)。『改造』編集部次長であった19年1月29日、治安維持法違反で3回目の検挙。これがいわゆる横浜事件で、敗戦後の20年8月29日、懲役2年・執行猶予3年の判決を受けた。同年末頃に改造社にいた佐藤績の声掛かりで高山書院に入るが半年ほどで辞めた後、永見書房、同友社に勤める傍ら、日本ジャーナリスト連盟事務局長を兼ねた。24年頃に同友社が解散すると明治生命の外交員となり、組合の中央執行委員長も務めた。その後、恒文社やランゲージ・サービス社に勤務した。

 

注2 小林英三郎「私の体験的治安維持法物語②」(『横浜事件再審裁判を支援する会』No.33(1996.11.20))。『大原社会問題研究所雑誌』No.455(1996.10)所収の吉田健二「日本政治経済研究所と『大衆政治経済』(1)――小林英三郎氏に聞く」に詳しい経歴がある。No.458(1997.1)に第2回、No.459(1997.2)に第3回が掲載されているが、こちらは未見。
注3 小林英三郎「青山鉞治君を悼む――半世紀来の友として」(『横浜事件再審裁判を支援する会』No.4(1988.4.5))。

【図2】「夫・小林英三郎の思い出」と「日本政治経済研究所と『大衆政治経済』(1)――小林英三郎氏に聞く」

■その他の同期4人の足跡――柳沢彦三郎ら

小林と同期入社のうち、出世頭の池島を除いた4人について見てみる。
江原謙三の消息は『文芸春秋三十五年史稿』「昭和20年6月」の項目に「13日、江原謙三、報道班員として比島に従軍中戦死す〔註・下段44〕」とある。下段44の註には「昭和18年7月、比島派遣軍報道部嘱託として渡比、昭和20年6月13日戦死。行年36歳。遺族は、夫人、一男」。同期ではないが、同じく報道班員としてフィリピンに派遣されていた社員・生江健次も7月14日に戦死している。
鈴木俊秀は、塩澤実信「敗戦前後・一編集者の生活」によると「〔池島信平の妻である〕郁夫人の従妹と結婚。社を後腐れなく辞めて、新潟の帝国石油へ転職した」とあった。
蔵野克己については、政界往来社などに勤めた同名の人物が見つかるが、彼の書いた「戦前戦後二度のお勤め」(『政界往来』昭和44年11月号掲載)などを読んでみるも同定は出来なかった。
柳沢彦三郎(別名・安藤彦三郎)は、戦時中、大日本言論報国会企画課長を務め、右派の編集者として力を振るったようだ。彼の名前で「国会図書館デジタルコレクション」を検索すると、横浜事件に巻き込まれた畑中繁雄『覚書昭和出版弾圧小史』(図書新聞社、昭和26年)、黒田秀俊『血ぬられた言論 : 戦時言論弾圧史』(学風書院、昭和27年)、美作太郎・藤田親昌・渡辺潔の共著『横浜事件』(エディター叢書、昭和52年。初版時タイトル『言論の敗北 : 横浜事件の真実』三一新書、昭和34年)などで一様に悪し様に書かれ、小林が事務局長を務めた日本ジャーナリスト連盟編の『言論弾圧史』(銀杏書房、昭和24年)では畑中が担当した章で、“超国家主義編集者”“ファシスト編集者”と名指しされている。戦後は日本雑誌協会などにいたようで、生涯を通して尾上柴舟門下の歌人としても活動した。歌集『風浪居短歌抄』が3冊あるも未見。小林英三郎と同期で同じ学科出身ながら、戦時中は対照的な立場にあり、ともに平成まで生きた。対比して描けると面白いだろうが、そこら辺は取材をして書く人の領分だ。

■文芸春秋の第1回入社問題

前述の『池島信平文集』収録の入社問題が転記されていたエッセイのタイトルは「ある時代」(注4)という。自身の文芸春秋入社について触れた文章で、入社試験の模様も出てくる。

指定された面接所のレインボー・グリルの一室で、はじめて菊池さんを見た。掌が丸いのと、眼を絶えずパチパチしているのが眼についた。
佐佐木茂索氏は当時は専務で、眼鏡越しに、
「君は、君の才能で、何が一番売りものですか」
と訊く。こういう文学的な表現法に慣れなかった私は、周章てて、
「あまりありませんが、学校で歴史をやりましたから、歴史のことは少し知っています」
といった意味を、シドロモドロで答えると、側から菊池さんが、
「キミ、たいてい、社に来てもらうよ」
といって、眼をパチパチした。何ともいえない親しそうな顔附であった

その「附記」として彼等の受けた入社問題が転記されていた(注5)。どうやら、その言葉について説明文を書くというものらしい。以下、全文を引用するので、挑戦してみてください。

附記
私の受けた入社試験の第一次の問題を参考のために列記してみる。
これを二時間で考えた菊池さんの頭の廻転がどういうものであったか、また当時の世相の断片が如何に現れているか――なかなか興味ある問題である。単語ばかり百題などという試験は空前絶後であろう。
(今になっても、私には分らない問題がいくつかあることを白状しておく)。
島左近、奥村不染、島徳蔵、河井継之助、西岡竹次郎、河合徳三郎、本多正信、福島安正、本多熊太郎、木谷実、堀辰雄、網野松男、堀久太郎、宮城道雄、高山右近、矢部謙太郎、藤田謙一、江口定条、岡倉天心、斎藤弥九郎、五所平之助、小林千代子、中平ふみ子、河崎なつ子、淵田忠良。
ロクサーヌ姫、ユージン・オニール、イヤゴー、ラケール・メレ、レディ・グレゴリー、ブラスコ・イバニェス、ウィリアム・テル、エレン・テリイ、ミスタンゲット、ジェイムス・ジョイス、E・A・P、G・B・S、ムーラン・ルゥジュ、ギャッグ、ゲレンデ、アパッシュ、リリーフ・ピッチャー、エレキテル、エンコのテキ屋、ゴスペル、保名、婦系図、どんどろ大師、城の崎にて、静かなるドン、やすけ、不在地主、目黒ダービー、八笑人、てんやもの、クロイツェル・ソナタ、うらなり、英雄交響楽、逢不足、ダッチハーバー、後朝、コニイ・アイランド、ピケ、南淵書、ルビ、白骨の御文章、ヴォークス、葉がくれ集、義公、濁り江、両旗、滝口入道、退き口、螢草、生得、蒲団、武辺者、鐘新、念者、横線小切手、寧楽、中条流、玉藻よし、山田流、アリバイ、甲州流、寒山拾得、伊賀流、相馬事件、日糖事件、天誅組、文芸復興、ア・ラ・カルト、ムジーク、腰越状、シテ・ワキ、佩文韻府、郵便報知、無門関、公治長。
以上百問 二時間

注4 初出は『文庫』昭和28年4月号。
注5 先日、南部古書会館のガレージに出ていた『文芸春秋七十年史』を手にしたら、こちらにも入社問題が引用されているのを知った。

 

○小林英三郎(こばやし・えいざぶろう)
旧名=居長英三郎(いちょう・えいざぶろう)
『改造』編集部次長 日本ジャーナリスト連盟事務局長
明治43年(1910年)7月1日~平成8年(1996年)10月2日
【出生地】滋賀県長浜市
【学歴】三高文科甲類卒→東京帝国大学文学部社会学科〔昭和8年〕卒
【経歴】昭和8年東京帝国大学社会学科を卒業、文芸春秋社の第1回公募入社試験を受けて合格。このときの合格者6名は皆東京帝大文学部出身で、同期に池島信平、柳沢彦三郎(安藤彦三郎)、江原謙三らがいた。雑誌『話』編集部に配属されたが、同年7月当時非合法であった『赤旗』配布に関わって検挙される。10年8月東京地裁で懲役2年・執行猶予3年の判決を受けた。11年4月立花敏男、内野壮児、城戸武之らと日本政治経済研究所を設立、人民戦線雑誌『大衆政治経済』の編集に参加。同年5月には文芸春秋に再入社、雑誌『話』の編集を担当したが、12月研究所の活動で再び検挙、2度目の執行猶予付き判決を受けた。13年12月末に釈放され、14年3月青山鉞治の紹介で改造社に入社、雑誌『大陸』編集部に配属される。『改造』編集部次長であった19年1月29日、横浜事件に巻き込まれ検挙される。敗戦後の20年8月29日、3度目の懲役2年・執行猶予3年の判決を受けた。同年末頃に高山書院に入り編集長として雑誌『言論』の創刊と編集を手伝うも半年ほどで辞め、その後は永見書房、同友社に勤める傍ら、21~23年日本ジャーナリスト連盟事務局長を兼ねた。この頃、第1回参院選や戦後初の総選挙で革新政党の候補者を支援する民主選挙推進本部が設立されると、その事務局長を務める。24年頃に同友社が解散すると、25年明治生命保険の外交員となり、組合の中央執行委員長も務めた。43年退職、恒文社で『小泉八雲著作集』などの編集に従事したが、同年退社。45年よりランゲージ・サービス社に勤め、日本語テープ教材の製作にあたり、監査役にも就任した。60年退社。最晩年まで横浜事件の再審請求に努めた。
【参考】『横浜事件再審裁判を支援する会』No.2(1987.3.15)、No.33(1996.11.20)、No.36(1998.9.15)、No.39(1999.11.20)、『大原社会問題研究所雑誌』No.455(1996.10)

 

○柳沢彦三郎(やなぎさわ・ひこさぶろう)
別名=安藤彦三郎(あんどう・ひこさぶろう)
大日本言論報国会企画課長 歌人
明治38年(1905年)3月8日~平成5年(1993年)5月
【出生地】愛知県
【学歴】東京帝国大学文学部社会学科卒
【経歴】昭和8年文芸春秋社の第1回公募入社試験を受けて合格。このときの合格者6名は皆東京帝大文学部出身で、同期に池島信平、小林英三郎、江原謙三らがいた。『現地報告』編集部長などを務める。18年大日本言論報国会へ移り、企画課長に就任。戦後は日本雑誌協会などに在籍。一方、大正14年歌誌『水甕』に入社。尾上柴舟の直門で、歌人として活動。23年『水甕』を離れるが、33年復帰。52年退社。歌集に『風浪居短歌抄』3冊がある。『短歌現代』平成5年12月号では5月10日没、『短歌年鑑』平成6年版では5月14日没。
【参考】『現代出版文化人総覧 昭和18年版』、『現代詩歌人名鑑1989』現代詩歌人名鑑編集委員会【編】/芸風書院/1989.1、『横浜事件再審裁判を支援する会』No.33(1996.11.20)

 


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