皓星社(こうせいしゃ)図書出版とデータベース

第23回 人物の略歴と経歴を書く――和木清三郎を題材に

河原努(皓星社・近代出版研究所)

 

■〈シリーズ紙礫〉の著者略歴

弊社の看板商品の一つに〈シリーズ紙礫〉というアンソロジーがあり、弊社出版目録でも巻頭のカラーページの次に配置されている。紹介文に曰く「従来のアンソロジーとは異なる切り口で文学作品を蒐集したアンソロジー。明治から平成まで書き手の有名無名を問わず、テーマに合う作品を縦横無尽に採録します。30ページにおよぶ重厚な解説は、テーマとする事物の文学小史としても読めます。ちょっと不穏なこのシリーズに、どうぞお付き合いください」。今までに「闇市」「テロル」「浅草」「女中」といったものを出してきた。
2023年6月末に出る最新刊(第17弾)の『文豪たちの関東大震災』(児玉千尋編)では、初めて私が編者探しから校正までの一通りの作業を担当をしたのだが、これまでも収録作品のコピー採りや巻末の「著者紹介」執筆などを手伝ってきた。
ある人物の経歴を要約して示すのは私が20年以上やってきたこと。収録作家が決まると、年譜のある本を借りてきて、他の本の著者略歴や「コトバンク」の事典記述を参照し、文章を練っていく。収録作家はほぼ有名な作家ばかりだが、たまに無名な人がいて、こういう人は年譜や参照できる略歴が無い場合があり、調査に苦労する。2年前、第15弾『ゴミ探訪』の編集時に手がけた和木清三郎もその一人だった。インターネットで調べると「コトバンク」に2つの人名事典からの経歴があった(※1)。引き写す訳にはいかないので、なんとか調べて書いた(後ろで引用してます)。

 

※1 さらに今調べたら、最近知遇を得た尾崎名津子さんが書かれた、和木に関する文章を見つけた。

 

■和木清三郎の経歴

「コトバンク」掲載の情報はそれぞれ下記の通り。

○デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「和木清三郎」の解説
和木清三郎 わき-せいざぶろう

1896-1970 大正-昭和時代の編集者。
明治29年1月5日生まれ。改造社勤務をへて,昭和3-19年第3次「三田文学」の編集を担当。石坂洋次郎ら三田系の新人,また井伏鱒二(いぶせ-ますじ)ら学外の新人も登用した。戦後「新文明」を創刊。昭和45年4月24日死去。74歳。広島県出身。慶大卒。本名は脇恩三。

○20世紀日本人名事典 「和木 清三郎」の解説
和木 清三郎
ワキ セイザブロウ

生年 明治29(1896)年1月5日
没年 昭和45(1970)年4月20日
出生地 広島市
本名 脇 恩三
学歴〔年〕 慶応義塾大学文学部英文科卒
経歴在学中から改造社に勤め、大正10年「三田文学」10月号に「江頭校長の辞職」を発表。さらに「屑屋」「結婚愛」「みごもれる妻」などを執筆。昭和3年平松幹夫の急病で「三田文学」編集を担当、19年の辞任まで永井荷風時代とならぶ隆盛期を築いた。石坂洋次郎、山本健吉、北原武夫ら三田派新進、井伏鱒二ら学外新人登場にも貢献した。しかし出版部創設が因となって辞任、上海に渡った。戦後小泉信三の後援で雑誌「新文明」を創刊、45年まで続けた。

作家というより編集者だ。これは『出版文化人物事典』の収録対象だぞ、と気合いを入れる。
ちなみに『20世紀日本人名事典』など日外アソシエーツの人名事典類は基本的に人物情報データベース「WHO」からデータを抽出して作製するので、刊行時点での「WHO」データを紙に出力したものと考えてよい。

 

■資料を探して書く

基本的な情報を求めるには、まず「NDLオンライン」を引くことだ。引いてみると執筆記事はそれなりにあるが、著書は『唐詩選講義』(京文社、昭和10年)という単著が1冊あるのみ(この本に経歴情報は少しも無かった)。『三田文学』平成12年5月の臨時増刊「三田文学創刊90年 三田文学名作選」に、直木賞作家の戸板康二が「和木清三郎さんのこと」という追悼文を書いており、近在の図書館に所蔵されていたので借りだしてみたが、簡単なエピソードが紹介されているだけ。エピソード単体では経歴の材料にはなり得ない。
さらに探すと和木が創刊した雑誌『新文明』終刊号に「和木清三郎追悼録」があった。今は「NDLデジタルコレクション」で館外からも見られるようになったが、2年前はまだ国会図書館に行かねば見られなかった。石坂洋次郎、牧野直隆、倉島竹二郎の弔辞には略歴は触れられておらず、寄せられた追悼文にもエピソード以外のものはなかった。
「これは困ったな」と思っていると、翁久允が主宰した富山県の郷土誌『高志人』昭和46年9月号に志村有弘が寄せていた「和木清三郎と「三田文学」」という一文にたどり着いた。「一.誕生」「二.編集時代」「三.和木清三郎の文学」と分け、故人の来歴を丁寧に書いていて、非常に助かった。これをもとにして、次の「著者紹介」を書いた。

和木清三郎(わき・せいざぶろう) 一八九六年~一九七○年
本名は脇恩三。我が国の缶詰製造の先駆者である脇隆景の三男。慶應義塾大学国文科に学び、慶應の先輩である経済学者・小泉信三と作家・水上滝太郎の知遇を得る。在学中の一九二一年『三田文学』に発表した「江頭校長の辞職」で作家デビュー、その後「結婚愛」「みごもれる妻」などを執筆。二八年水上の庇護のもと『三田文学』の編集担当者に就任すると創作から遠ざかるが、四四年に退任するまで同誌の興隆に大きく貢献した。戦後は和木書店として出版業を始め、五一年には小泉を看板に雑誌『新文明』を創刊した。

■略歴を書く、ということ

略歴を書くのは、国語の試験の「この作品で作者が言いたいことを100字で書きなさい」という設問と同じである。つまり「この人物はどういう人か。100字で書きなさい」ということで、「この人物はどういう人か」の部分は自分で用意しなくてはならない。集めた資料から、その人物にとって何が重要なのかを洗い出し、重要度に従って時系列に並べて要約する。もちろん“100字”の部分はその時々で伸び縮みして、〈シリーズ紙礫〉の場合の目安は250字だ。なお「10字で書きなさい」なら、おそらく「三田文学の名編集長」が正解だろう。
そう、和木にとって最も重要なのは「三田文学の名編集長」であることと、「作家でもあった」ということ。これに家族情報(父がユニークな経歴であったので)と、誰に重用されたか(小泉信三と水上滝太郎)、作家情報(デビュー作のタイトルと、主要作)、戦後情報(独自に出版業を始めたことと、『新文明』の創刊年)を足した。特に小泉信三の腹心であったことは重要なポイントと判断し、それをまとめて上記の略歴になった。編集者の場合、関係した作家名をずらずら並べる手法もあるが、今回の文字数だとオーバーするので不採用とした。

同じ材料をもとに略歴では無く、『出版文化人物事典』用の専門人名事典記述として書き直すと、下段のようになるだろう。字数制限を緩くして出版分野に力点を置いており、「典拠による卒業年の食い違い」「戦中の足取り」「筆名の由来」なども記述に組み込んだ。

今回は被伝者の裏話がなくいささか物足りないので、「和木清三郎と「三田文学」」に書かれていたエピソードを紹介して、この一文を閉めてみる。エピソードは面白いが、経歴に織り込みづらい。

(和木が)もともと国文科へ入ったのも、父隆景の伝記を書きたいためという全く一途な気持からであった。「世界」を刊行していた頃、当時まだ無名であった川端康成に原稿の依頼をした。川端は執筆のため直ちに伊豆へ行ったが、旅館代が不足し、和木あてに不足金の依頼をして来た。和木は直ちに八十円の金を送ったが、こうして持って来た川端の原稿が「伊豆の踊り子」であった。ところがその時世界社は破産寸前で、この原稿を発表しないうちに潰滅してしまった。周知の如く「伊豆の踊り子」は、大正十五年一月の「文芸時代」に載ったものである。

 

○和木清三郎(わき・せいざぶろう)
本名=脇恩三
『三田文学』編集担当者 『新文明』編集発行人 小説家
明治29年(1896年)1月5日~昭和45年(1970年)4月24日
【出生地】広島県広島市大手町
【学歴】慶応義塾大学国文科
【経歴】我が国の缶詰製造の先駆者である脇隆景の末っ子の三男で、明治44年わずか3ケ月の間に両親と長兄を失う。45年東京の中学に編入した後、慶応義塾国文科に学ぶ。志村有弘「和木清三郎と「三田文学」」には「大正5年慶応大学に入学し、大正12年同大学を卒業」とあるが、『新文明』昭和45年6月号の富田正文の追悼文に拠れば「塾の学籍簿では大正6年に入学して15年の1月に中途退学になっている」。与謝野鉄幹の推薦で改造社に勤めた後、饒平名智太郎(永丘智太郎)と世界社を創業、雑誌『世界』を出版。慶応では小泉信三と水上滝太郎にかわいがられ、昭和3年12月平松幹夫の急病により『三田文学』の編集担当者に就任した。水上の庇護のもと編集作業に励み、井伏鱒二、春山行夫、坂口安吾、上林暁ら慶応出身者以外にも『三田文学』の門戸を開いたほか、石坂洋次郎、北原武夫、原民喜、丸岡明、宇野信夫、柴田錬三郎らを輩出し、一時代を築いた。また三田文学出版部の名義で単行本の出版も手がけたが、戦時の企業整備により同社は慶応出版社に吸収合併されてしまう。その後、名取洋之助から上海で雑誌を興すからと誘われ同地へ渡航。戦後に引き揚げると小泉家に仮寓。和木書店として出版業を始めると、小泉の『社会思想史研究』が大当たりをとった。26年小泉を看板に『新文明』を創刊、新文明社を興し編集校正から広告取りまでをこなしたが、45年大阪万博見物の直後に急逝。同誌も和木の追悼特集を行った同年6月号を最後に終刊した。一方、小説家としては慶応在学中の大正10年『三田文学』に処女作「江頭校長の辞職」を発表、その後も「屑屋」「結婚愛」「みごもれる妻」などを執筆したがやがて創作から遠ざかった。“清三郎”の筆名は長兄・中郎の“郎”、二兄・清之の“清”、自身の名・恩三の“三”を併せたもの。
【参考】『新文明』1970.6、『高志人』1971.9

 


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