皓星社(こうせいしゃ)図書出版とデータベース

第6回 「ピエロ」デカダンスへの韜晦

福島泰樹(歌人)

 

 死の前年の5月、16歳の延子は、「コムニストに」「なれないとゆう予感を信じていたから、その秋には死ぬつもりで春と夏を過した」(手記B)と記した。……が、学内での活動(壁新聞「ホノホ」の創刊)、社会思想の学習と創作(小説、詩、評論)、青共(青年共産同盟)への加入とオルグなどに身を挺することで辛くも持ちこたえた。年が明けた春、死は決定的となり、延子は書き溜めた詩稿を整理する。二冊の大学ノートに書き写されたノート「A」「B」がそれである。

 ノート「A」には、「〈15才の詩集〉ヨリ」「〈16才の詩集〉ヨリ」「〈17才の詩集〉ヨリ」計61篇の詩と4篇からなる短歌作品(計36首)が、ノート「B」には、前ノート「〈17才の詩集〉ヨリ」の続きにあたる19篇と「〈18才の詩集〉ヨリ」6篇の詩がそれぞれ収められている。

 計86篇の詩の末尾の多くには、「1945.1」と言った具合にその詩を書いた「年月」、あるいは「年」を省略した「月」が記載され、編年(篇月)体を基本に書き写されている。作品数の少ない「〈15才の詩集〉ヨリ」「〈16才の詩集〉ヨリ」までは、作品が出来た月順に書き写されていた。

 ところが、「〈17才の詩集〉ヨリ」作品は急増し、同時に「月」順の原則が狂い出す。「離愁」(1948.1月)「Fに」(1948.2月)「深夜の葡萄(1948.6月)「わだち」(1948.5月)「ヴェニス断想」(1948年.1月)、「白い玩具」(1948.5月)といった具合にである。

 これにはどのような心の動きがはたらいているのだろうか。

 

 ところで詩稿以外の創作(小説、戯曲など)や記録(手記、読書日記)の多くは、「共生」加入に激怒した養父によって取り上げられ焼かれてしまったが、詩稿は焼失をまぬがれ延子の手に残った。死へ向かって凝縮した日々を生きた延子にとって、残された唯一の生の記録である詩稿への愛おしさは、ひとしおであったことだろう。

 想像できることは延子は小説や戯曲などとは別に、詩を書き留めるための詩ノートを保持していたのではないのか。そのノートと文芸部機関誌「からたち」(1948年9月創刊)などに発表した詩篇を机上に広げ、創作年月日順に書き写していったのであろう。ノート「A」、ノート「B」の詩篇に推敲、ためらいの跡はないことから想像するに、短時日に猛スピードで書き写していったものであろう。多くの場合は、書き写す過程において、順序が前後したと思われる。

 だが、8連28行からなるこの詩はどうか。

 五七調の「長歌」形式を思わせる「ピエロ」の前半2連を引く。

 

眞晝中 陽に熟れしかも

哀れなるピエロの歌よ

 

老い行く身  放浪サスライに任せ

サーカス小屋の衣裳とりどりに

ふるさと妻子なき行末の暗く

客前に涙しひそめ

笑う唇の苦きゆがみ

 

 タイトルは「ピエロ」、1948年5月に書かれている。「〈17才の詩集〉ヨリ」の一連である。「17才」を満年齢にすれば、延子は1932(昭和7)年2月の生まれであるから、この詩は16才と3ケ月の詩である。だが、詩の内実にふれる前に、知りたいことがある。この詩「ピエロ」は「5月」の詩であるのに、「6月」制作の詩11篇、「7月」制作の詩8篇、計19篇もの詩群を飛び越えて、「6月」の詩「ロバ」と共に、なぜに「8月」「9月」制作の詩篇の唯中に置かれているのか。その類例は他にもある。「6月」の詩「生誕」に到っては「7月」の詩「殺害」と共に実に29篇もの詩篇を、飛び越えて「11月」の詩群の中に放り投げられているのだ。

 「生誕」「殺害」については稿を改めよう。

 書き写す段階で、延子はこの詩「ピエロ」を捨てたのではないのか。
 理由はその文体と内容にある。

 収録を思いたったのは、「6月」制作の詩「ロバ」にある。老いぼれたロバに身を俏して行き着いた墓場の、昔ながらの「黑土の底」。そこから這い上がるように杳く「ピエロ」に思いをめぐらしていたのであろう。

 

光あらば いずくいずこに

深き皺 白粉にのばし

紅ぬりて 目に黑させば

頬まろくあからむおもい

 

貧しき皿 かけたるフォーク

雑戸寝の踊り子の脚

鞭打たれ 太きみゝずばれも

笑い狂う ピエロの涙

落日はテントにあかあか

楽屋裏ほこりだまりに

うずき行く 喉のいたみか

 

何飲まん せめて焼酎

くみかわし 果ては たきのみ

醉いくずれ醉わまんものと

藪蚊群れる草原にたおれ

 

星遠く瞳はぬれる

あてどなき旅のイタツキ

色さめし だんだら染めの

トンガリの帽子かむりて

靑わたる放浪の

雨の中ーー安宿の壁

 

 私は、この詩をこんなふうに読んだ。

 

 真昼の陽に熱く照らされ
 熟れた柿のこの身を晒す
 老いぼれたピエロの歌よ
 放浪にわが身を任せ
 浪費した長き歳月
 故郷には妻子つまこもなくて
 帰るべき家とてあらず。
 サーカス小屋と共に運ばれ
 浮き草のように漂い
 横縞の衣裳に隠れ
 観る客は千々に変われど
 今日もまた涙を隠し
 うれしげに笑う
 この唇の苦きゆがみよ。

 

 光よ光 おんみいずこに
 赤き皺 白粉にのばし
 目にぬりて 目に黑させば
 恥じまみれのまんまるの貌よ。

 

 客去りし
 夜の静寂しじま
 貧しげな皿
 欠けたフォークよ。
 あゝ夜よ
 雑戸寝のする
 踊り子の
 疲れ切ったあわれな脚よ。

 

 今日もまた
 あざけり笑う
 人々の前
 鞭に打たれて
 戯け笑えば
 服の下みみずに腫れて
 笑い狂うピエロの、くされ涙よ。
 落日はテントを染めて
 埃だまりの楽屋にひとり
 しくしくと疼きてやまぬ
 喉の痛みよ。

 

 老い深き曲芸師と
 二人するあわれ酒盛り
 安酒を酌み交わすうち
 気がつけばあわれ滝飲み。
 肩を組みテントを出れば
 漆黒の夜のくさはら
 酔い痴れて倒れしおれに
 群舞する あわれ蚊の群れ。

 

 仰向けば 夏の夜空に
 星ひとつ 涙に濡れて
 あてどなく旅に病めど
 色褪めし段だら染めの
 トンガリの帽子かぶりて
 靑みわたる流浪の日々よ
 雨の中 安宿の壁。

 

 16歳の少女は、老いたピエロに身を託し、人生零落の悲哀をこう歌ったのだ。セブンティーンで命を絶ってしまっているから、波瀾に充ちたはずの青年期さえ体験しなかった少女が、いきおい老いたピエロの頽廃する人生流浪の歌をうたったのである。改めて若き死を思う。

 死とは、未来への、あらゆる可能性への拒絶であり、ノンであり、断念である。

 断念への強固なる意志が、「眞晝中 陽に熟れ」たようなデカダンスの心情を生んでいったのかもしれない。拒絶と頽廃……!

 延子が最後に、自らを託したのは、その友・高村瑛子であった。

 

 詩ノート「A」「B」に次いで、自殺失敗(1949年3月26日)以後、書き始めた詩「NoteBook」、大学ノート2冊分の手記「Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ」を託された瑛子は、桐生高等女学校卒業以後を社会福祉の志に燃え、滋賀県の児童福祉施設近江学園に勤務、帰郷後は東村山市の施設で定年を終え、以後もハンセン病患者たちと親しく接し、奉仕に一生を終えた。一切の資産を放棄、遺体は大学病院に託した。

 延子への友情の証であった。

 とまれこの詩「ピエロ」を書いた16歳の詩人長澤延子は、一気に豊穣の時を迎えるのである。

 


福島泰樹(ふくしま・やすき)
1943年3月、東京下谷生。早大卒、69年、歌集『バリケード・一九六六年二月』でデビュー。「短歌絶叫コンサート」を創出、朗読ブームの火付け役を果たす。85年4月、「死者との共闘」を求めて東京吉祥寺「曼荼羅」で「月例」コンサートを開始。ブルガリアを皮切りに世界の各地で公演。国内外1700ステージをこなす。単行歌集に『下谷風煙録』(皓星社)等34冊、全歌集に『福島泰樹全歌集』(河出書房新社)。評論集に『弔いーー死に臨むこころ』(ちくま新書)『寺山修司/死と生の履歴書』(彩流社)、『誰も語らなかった中原中也』(PHP新書)、『追憶の風景』(晶文社)。他にDVD『福島泰樹短歌絶叫コンサート総集編/遙かなる友へ』(クエスト)など著作多数。毎月10日、吉祥寺「曼荼羅」での月例「短歌絶叫コンサート」も38年を迎えた。


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