皓星社(こうせいしゃ)図書出版とデータベース

第5回 16歳、5月の詩

福島泰樹(歌人)

 

 昭和23年2月11日、延子は16歳の誕生日を迎える。

 この頃、「私が、わたしの前を通り過ぎ/夜の闇に吸い込まれて行く時」と仮想の相聞を綴った短詩「Fに」を綴る。ほどなく、大事件が勃発。原口統三『二十歳のエチュード』との出会いである。高村瑛子への手紙(『友よ 私が死んだからとて』天声社 1968年刊所収)で、「これとても面白い本です。久しぶりに痛快を叫びました」とその衝撃を記している。

 私が学生であった1960年代当初、少なくとも文科系の学生にとっては原口統三は、誰でも知っている名であった。私が所持する角川文庫版『二十歳のエチュード』奥付には「昭和二十七年六月三十日 初版発行」「昭和三十二年年七月月五日 十三版発行」とある。わずか5年で13版も版を重ねていた。夭折の代名詞といえば原口統三であったのだ。

 原口統三、昭和2年1月、朝鮮京城府、いまのソウルに生まれ、幼少年時を統治下の満州を転々、昭和19年大連一中を卒業。4月、第一高等学校文科に入学、詩作、フランス文学に専念する。20年、旧知で僚友の清岡卓行と大連に帰省、帰京後は一高寮内で孤独な生活を送っていた。自殺を公言したことから、校内で畏怖の対象となる。

 原口統三が逗子海岸で入水自殺を遂げたのは、昭和21年10月。「日本読書世新聞」で、一高生の死を知った前田書店の編集者伊達得夫は、売れると踏んだのだろう、駒場の寮に駆け付ける。遺稿を保管する僚友橋本一明の手を経て、翌22年6月『二十歳のエチュード』は、その死から8ヶ月を経ずして出版されることとなるのだ。

 一高生(19歳)の死は敗戦後の人心を焚き付け初版5千部は忽ち売れ切れ、5千部を増刷。気をよくした伊達は、書肆ユリイカを立ち上げ改訂版『二十歳のエチュード』を23年2月に刊行。延子は双方のどっちを手にしたのであろう。

 

死は虚無以外の何ものでもない。死は目的でも、対象でも、実在でもなく、いはゞ美しい生に対する方法意義を有するに過ぎない。しかし、この方法を実践することなしには、一瞬たりとも美しい生は実現しない。死によつては極限的に美の閃光を発して消えゆく生。死の真実の意味は飽くまで生そのものの不可能な純化を可能にしようという方法である。死によつて極限化された生は知性的なものではない。また意志的なのではない。それは情念の純粋な美しさである。           『二十歳のエチュード』

 

 私が角川文庫版『二十歳のエチュード』を古本屋で入手にしたのは、大学に入学した年の昭和37年5月であったが、19歳の私は、「死」を綴ったこの部分をどのような思いで傍線を引いたのであったのか。そして、16歳の誕生日を迎えた延子は、どのような思いで、「死は虚無以外の何ものでもない。死は目的でも、対象でも、実在でもなく、いはゞ美しい生に対する方法意義を有するに過ぎない」の一節を目にしたでのであろうか。

 

*

 

 昭和21年秋、「数々の詩篇や創作、自ら誇った「新しい日本語」の」(「訣別の辞に代へて」)のすべてを消去して、死に臨んだ統三には、わずかに2篇の詩が遺されているのみである。

 

日輪は遠く逃げゆく

有明の天上ふかく

日輪は遠ざかりゆく

仰ぎ見よ暁闇の空

罪人の雲間に凍り

日輪は遠く消えゆく           「天外脱走」

 

 1篇はも、朔太郎心酔の痕が窺われる「天外脱走」と題する、16歳の作(昭和18年12月)である。

 いま1篇は、一高に入学した翌月、昭和19年5月、一高校誌「向陵時報」に掲載した「海に眠る日」。タイトル脇には、「海に溶け込む太陽だ ランボオ」の詞書……。

 富永太郎といい、中原中也といい、長澤延子といい、夭折者はなにゆえにかくまでもアルチュール・ランボーの詩に熱中するのであろう。

 

かれは真昼の海に眠る。

茫洋たる音楽のみどりに触れあふ はるかな

蜃気楼の奥深くかれは眠る

あふれる香髪にほひがみのみだれ巻いて溺れるあたり

とほく水平線の波間にさ青の太陽は溶けこむ。

さうして はるばると潮の流れる耳もとちかく

かれは一つのかなしい言葉をきく

お兄さん! お兄さん! お兄さん……

 

ああ こんな恍惚の夢のやうな日は

どこの海辺で待つてゐるのか           「海に眠る日」

 

 私はかつて原口統三に献じた「純潔の墓標」(三一書房 2009年刊)という一文で、この詩を「フランス象徴詩の受容は、この詩によって完成した、と思わず手を叩きたくなる。完美の水平線の彼方に、夢は吸い寄せられる。陶酔の波間に漂う死のイメージの充足。」と記した。

 

 原口統三との出会いを「痛快を叫びました」と記した高村瑛子宛3月の手紙、続く4月の手紙には、エチュード中の「僕は必然性に真向からひらき直る。ーー貴様こそ敵だ!」の一節を引き、「私の叫びを原口統三が生命がけで叫んでくれました。」と書き記した。

 だが日を置かず書かれた、次の手紙(同年4月)では、「唯物弁証法を読み初めたら原口統三がピエロに見えて来ました。しかし唯物論は今のところ大嫌いです」と原口からの脱出を口にする。そして数行後に、祖母の死が記されることとなる。

「危篤・臨終・お通夜・告別式・埋葬…この二、三日は眠っても眠られずまだフラフラしています。母をなくしまた祖母をなくした…こんな感傷がくさり切ってバラバラになりそうな頭をあやうく救ってくれました。」

 実母の死後を継母の目を隠れ、母代わりになって庇護をしてくれた人の死である。原口統三との出会いと訣別、祖母の死と16歳の春は烈しく闌けてゆくのである。

 5月、原口統三との戦傷を記した長文の手紙が書かれる。

 曰く「原口は烈しくラッパを吹き鳴らしたが、足はそれに追いつかなかった。」。そして、こう言い放つのである。

「悪態をやめ最後に哀悼しよう、原口は弁証法を知らなかった、しかしそれは彼らしかった」「私は生まれた時から原口でした。そして今も原口です。しかし二ケ月間の原口病から脱け出して生きている(死ねない)私は唯物論者に転身してゆきます」。

 かくして、「大嫌い」であったはずの「唯物論」、「唯物論者」への転身の喇叭を吹き鳴らすのである。その実践の足がかりは、学校であった。

 

*

 

 県立桐生高等女学校は、従来の四年制をこの年のみ廃し、桐生女子高等学校と名称を変更。延子は、新制の5年生に進級。授業は選択制が採用され、週5日制となる。

 文芸部に入部した延子は、社会部に次いで新聞部を創設する。延子は鉄筆を揮い壁新聞「ホノホ」を創刊。「唯物論者に転身」を学内での活動のうちに見いだそうとするのである。同時に、内面の活動が激しさを増す。原口統三からの超克、「生への純潔」「唯物論者への転身」は、どのようになされてゆくのか。詩作に火が付いた。

 5月、「わだち」「白い玩具」。6月、長詩「深夜の葡萄」「追想」。そして7月には、あまたの読者を魅了した「告白」と、めらめらと烈しく一途に燃え上がってゆくのである。

 だが、その内情は、晴れやかにではない。重たい贖罪を背負うように苦しげに、切なげに、定型詩を思わせて完膚なき名作「わだち」の悲創な車輪を挽きずるように……。

 昭和23年5月のいま一つの詩「白い玩具」タイトル脇には、萩原朔太郎の詩の一行、「祈るが如く光らしめ」の一行が引かれている。気になって全詩集を読み始めた。『月に吠える』にも『青猫』にもなく、ようやく『蝶を夢む』の掉尾、しかも「祈るが如く光らしめ」の一行は詩集の最終行に置かれていた。

「その絶頂いただきを光らしめ/とがれる松を光らしめ/峰に粉雪けぶる日も/松に花鳥をつけしめよ/ふるさとの山遠々とほどほに/くろずむごとく凍る日に/天景をさへぬきんでて/利根川のに光らしめ/祈るがごとく光らしめ。」(「榛名富士」)

 延子は、この一行に何を託したのか。

 11連66行からなる詩「白い玩具」第1連を引く。

 

すすけたエレジイの上に音もなくすわり

透明なマナコを持った

白い玩具よ

ーー答えてはくれまいか

 

 およそ、「榛名富士」とは様相を異にしている。「白い玩具」とは、昔懐かしい悲しい楽曲を収録したレコード盤の上に置かれた、白い顔をしたゴム製の西洋人形か。とまれ、「白い玩具」第7連、8連、9連を引く。

 

白い玩具よ

ーー答えてくれまいか

今宵臨終の眼をお前に投げかけ

汚濁に沈み行く哀願の魂に

 

さびたセコンドを押しのけ

転身は私に汚濁を示した

この世のあらゆる汚濁

この地球をつきぬけて

どこかの星群のそれを呑みこみ

ああもつと汚せ

何のためらいも後くされも残さず

全ての因縁を最後の力でけっとばし

ーー今は行くだけだ

 

煤煙にまみれた原色の人間性

大工場に押しつけられた貧民街へと

断末魔にふるえる魂を

軽やかに抱きとり

この窓を捨てこの塵埃を捨て

新たな汚濁へとお前は去るのだ           「白い玩具」

 

 まるで萩原朔太郎、「絶望の逃走」ではないか。「唯物論への転身」といいながら、原口統三からの脱出はなされたのか。否であろう、ならばコミュニストへの転身はなされたのか。否、であろう。だが、行く先は活動の場である「貧民街」ではなかった。

 晴れやかであるはずの五月、カツカツと進みゆくのは、暗い死の荒原をゆく馬車が残す「わだち」であったのだ。

 どちらが先に書かれたのかは不明だ。「定型詩を思わせて完膚なき名作」と私は言った。

 

陽は沈み冬の荒原の果

たゞひとつ馬車の黒影はゆく

 

凍てつく寂寥にカツカツと鳴り

しめやかに細く馬車のわだちはつづく

 

馬は首をたれ足並重く

この馬車には鈴がない

 

かすかな夕映えに黒影はくらく

この馬車には灯火がない

 

この馬車には馭者がない

 

カツカツと又しめやかに荒原の幻想は行く

ーー寂寥よ

はたして私は生きて来たのだろうか           「わだち」

 

 再び、5月に書かれた高村瑛子への手紙を引こう。

「原口は純潔を求めて死に転身しました。私は生への純潔を求めて全てのあいまいな態度を唾棄して唯物論に転身します。ひとつの必然のようにただ卑怯な人間にだけはなりたくないためだけに。」

「卑怯な人間にだけはなりたくない」、そのためのプロレタリアーであるのか。そして、こう宣言するのである。

「原口が最後まで拒否しつづけた唯物論、原口の侮蔑したプロレタリアートの闘争の中に、生きている私はとびこんで行くのです」

 この間の魂の懊悩を、延子は後に、しずやかに綴った。「コミュニストになれなかったら死ぬつもりで五年生を迎えた。/なれないとゆう予感を信じていたから、その秋には死ぬつもりで春と夏を過した。」(「手記B」)

 


福島泰樹(ふくしま・やすき)
1943年3月、東京下谷生。早大卒、69年、歌集『バリケード・一九六六年二月』でデビュー。「短歌絶叫コンサート」を創出、朗読ブームの火付け役を果たす。85年4月、「死者との共闘」を求めて東京吉祥寺「曼荼羅」で「月例」コンサートを開始。ブルガリアを皮切りに世界の各地で公演。国内外1700ステージをこなす。単行歌集に『下谷風煙録』(皓星社)他33冊、全歌集に『福島泰樹全歌集』(河出書房新社)。評論集に『弔いーー死に臨むこころ』(ちくま新書)『寺山修司/死と生の履歴書』(彩流社)、『誰も語らなかった中原中也』(PHP新書)、『追憶の風景』(晶文社)。他にDVD『福島泰樹短歌絶叫コンサート総集編/遙かなる友へ』(クエスト)など著作多数。毎月10日、吉祥寺「曼荼羅」での月例「短歌絶叫コンサート」も38年を迎えた。


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