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みみずくニュース・7・28

東京訴訟も和解成立 1999年3月26日に入園者21名が東京地裁に提訴した、いわゆる東日本訴訟は、27日熊本地裁判決をうけ和解した。和解した原告は486人、いかにこの裁判が、環を広げていったかがわかる。和解の内容は、国が総額63億7千万円の一時金に加え、弁護士費用を支払うという。 谺さんが裁判を起こすというときに、多磨の在園者の方々にも呼びかけていたのを目の当たりにしていたので、私も感慨深い。 谺さんは訴状について次のように話しています。「西日本の原告団の場合、1ハンセン病問題の真相究明、2患者・回復者の原状回復、3同種問題の再発防止を骨子にしており、もちろん私たち東日本の原告団のそれもほぼ同じ趣旨ですが、ただ私たちの訴えで特に大きく踏み出している点は、やはり「国の謝罪」でしょう。」『皓星社ブックレット7 訴状「らい予防法人権侵害謝罪・国家賠償請求訴訟』(1999・7・15) 國本衛さんは、「国の謝罪広告が求められたことは、最高の喜びです。この喜びを知らずに亡くなった人は無念だったと思う。納骨堂に眠る人たちがふるさとに帰れるよう、ハンセン病対策協議会の中で話し合って行きたい」(朝日新聞 7・28) また谺さんは、「我々の要求をほぼ全面的に受け入れたもので、喜びもひとしお」(毎日新聞 7・28)と語る。         

 

 ハンセン病国賠訴訟の勝利に思う             

作家・ハンセン病国倍訴訟原告 冬 敏之

本年5月11日に、熊本地裁で画期的なハンセン病訴訟の勝利判決が下された。 これは私にとって非常な喜びではあったが、同時に今後のさまざまな問題解決を考えると身の引き締まる思いもした。
ハンセン病は1909年に療養所が設置されて以来、90年を越す隔離撲滅政策の歴史をもっている。この間、二万三千余の入所者が、無念の思いを秘めて死んでいったと、私は考えている。
もともと、ハンセン病は感染率が低く、菌そのものも他の細菌に比べてきわめて弱いため、現代に至るも培養ができない。このことと深く関連していると思うが、入所者のうち四割以上の人々が自然治癒、または「病気が固まった」と言われ、顔や手足に若干の後遺症を残しながらも、病気の進行が停止するのである。こうした人々はいわゆる療養所の運営のために意図的に収容されたのではないかと思われる。予算的に見ても、職員の二十分の一以下の費用で所内のさまざまな仕事に従事させたのである。
こうした人々は、本来療養所にいる必要はなかったはずであった。十分な社会復帰のフォローと社会の受入態勢さえあれば、違った人生を歩めたと思う。
しかし、「無らい県運動」の旋風が吹き荒れ、らい予防法の強制収容、終生隔離の政策により、社会復帰のための職業訓練など考えられる支援策がいっさい取られなかった。 今回の裁判の焦点一つは、こうしたハンセン病患者、元患者への不当な隔離撲滅政策に終始した政府の人権侵害を問うものであった。 平均年齢74歳を越す入所者は、もう社会復帰が可能な人々はごく少数に過ぎない。私のように社会復帰をしている人たちも、平均年齢はほぼ同じであろう。考えてみるとあまりにも遅すぎた勝利と言えるし、真の意味の人間回復への道はまだ遠い。
心のどこかで望んでいる郷里の家族の墓へ遺骨を収めらる人は何人いるのであろうか。「もういいかい」と元患者が聴くと「まあだだよ」と墓を守る郷里からの返事があったと言う一口噺(ひとくちばなし)が、がぜん真実味をおびてくるのである。


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