皓星社(こうせいしゃ)図書出版とデータベース

第2回 『物語岩波書店百年史』は一般出版史として読める読み物

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■紅野謙介『物語岩波書店百年史 1 「教養」の誕生』岩波書店、二〇一三年九月

読了2014/3/5

文学に厚く哲学に薄いのは、著者の属性よりして已むを得ぬ傾きなのか。哲学叢書で名を成した岩波書店なれば、古屋芳雄の若書き小説に筆を割くくらゐならもうちょっと西田幾多郎以外の哲学書の中身を検討しても良かりさうなもの。新カント派といふ語すら出てこなかったやうな。

第八章「美しい本をつくる」中「一 装幀、印刷、製本」にて、最初期の発行図書『儒家理想学認識論』の版面への批評は当を失してゐる。曰く「句読点などの約物類が扁平で、無理矢理、字間に押し込められた印象である。碁盤の目のように文字が配列された紙面で、逆にその整然とした秩序が読書の速度やリズムに合っていない」(p.244)。国会図書館デジタルコレクションで版面を確認できるが、本文字間四分アキでその空きの部分に句読点を詰め込む組み方は、漢籍風で古めかしく感ずるかもしれないが、昭和戦前期まで学術書には普通にあったタイポグラフィーに過ぎない。句読点の高さを一字分取るベタ組みの方が新しかった(Cf. higonosuke『黌門客』2008-01-14「「句読法」若干」コメント欄2008/01/15 12:40=https://higonosuke.hatenablog.com/entries/2008/01/14#c1200368448)。

第九章、重大さの割にはやや駆け足の感ありて教養論など今少し紙数を配分して書き込んで貰ひたかった。

 

■佐藤卓己『物語岩波書店百年史 2 「教育」の時代』岩波書店、二〇一三年十月

読了2014/3/6

新旧文献を細かによく拾ってある博引ぶりが、嬉しい。歴史学者だからにしても、やはり、かうでなくては。その所為でこの巻だけ少し厚い。「あとがき」からも窺はれるが、「「物語」スタイルで叙述する」といふ制約無しに書けば『『キング』の時代』と対を成す名著になり得る可能性があったらう。

「出典註は省略した」代りに「研究者であれば検証可能な最低限の典拠情報を文中に書き込んだ」(p.378)といふのは実際およそ見当は着くものの、ただ、従来の出版史と違って事実はかうだ式の構へが何度か現れる時(e.g. p.80・146・187……)にその批判対象である「出版史」とは具体的に何を指すのかが判然としない。残念ながら出版史なんて研究分野はまだまだ確立に到らず、精々が近現代史や言論史(主に言論弾圧史)の流れに附随して目立つ出版物や出版社の動向が関説されてきたに過ぎぬから、大方は俗論の域を出ない。この著者に限ったことではないが、仮想敵の影を過大に見積もってカウンター・バランスを提示したつもりで偏向に陥る危ふさには用心すべきだと思ふ。本書ではディテールの叙述が前面に出てあまり論が立ってないのが幸ひしてゐる。

議論のしどころは「人を教育する文化」を問題にする第八章最終節にあったが、村上一郎『岩波茂雄』の「人が成長する思想」から引いても代替案にはならず、問題提起に留まった。固より「教育」的態度に反感を覚える者としては、同感しながらも所詮この著者も教育者の枠を脱してなく見えるのが、もどかしい。

あと、誤植がチラホラ。急いだのか?

 

■苅部直『物語岩波書店百年史 3 「戦後」から離れて』岩波書店、二〇一三年十月

読了2014/3/7

全三巻分の人名・書名索引附き。

やはり時代が近いと歴史にするのは難しいのか。一往、岩波書店史・出版史の叙述にはなってゐるのだが、それがそのまま政治状況の記述に重ねられたりスライドしたりするのが、ノンポリ読者の興を殺ぐ(松下圭一が重視されるべきことは理解できたが)。

大塚信一の活躍を述べるあたりではさうでなくなるのだが、山口昌男・中村雄二郎がパリ五月革命に影響されながら政治上の急進主義とは無縁だったと言ふ(p.188)なら、さうした彼らの非政治性が何だったのかについてそれまでの安江良介流『世界』路線との対比上も分析が欲しい所だのに、まるで論じてなかったのはこの著者にしては期待外れであった――岩波新書『丸山眞男――リベラリストの肖像』(二〇〇六年)で丸山の「政治的無関心」への関心(p.173)を取り出し「いやいやながらの政治参加」(p.181)を論じた苅部直には期待してゐたのだが、政治思想史専攻の限界か。

 

シンポジウムにて著者の曰く、「物語」といふことで自由に選択することにし不愉快に思ふ事は取り上げなかった、だから人気あった永六輔『大往生』(岩波新書、一九九四年)も赤川次郎も出て来ない、だと。

著者による口頭訂正が三点。

p.170、緑川亨が吉野源三郎の娘と結婚したと書いたのは史料批判しないで参考文献を踏襲した誤り、夫人の旧姓は吉野だが源三郎の血縁でない。

p.183、「火の子」での「ダイサンの会」を「大塚による私的な催し」としたのは誤り、大塚主催でなく客による集まり。

索引p.22、前田康博が二箇所に出て来るのを同一人物としてしまったのは見落としで、同名異人。

 

■十重田裕一『岩波茂雄 低く暮らし、高く想ふ』〈ミネルヴァ日本評伝選〉ミネルヴァ書房、二〇一三年九月

読了2014/3/7

著者が文学研究者だから文学書に偏るのは紅野謙介著以上だった。ほかに格別の特色が無い。内容見本の資料価値を強調してゐる(p.64)のが目を惹いたくらゐ。

 

■中島岳志『岩波茂雄 リベラル・ナショナリストの肖像』岩波書店、二〇一三年九月

読了2014/3/7

これも取り立てて見どころがない。「岩波書店蔵」とされる未公開資料を随所で使ってゐるのが取り柄だらうが、あまりうまく活用されてゐない(こんな小出しにせず資料集にして出版して貰ひたい)。岩波茂雄以外の人が書いたものでは、代りに使へる記事が『信濃教育』一九六八年十一月号(九八四号)「特集 岩波茂雄の人と業績」にもあったのではないかと思ふ。

 

以上五冊、二〇一四年三月七日にシンポジウム(日本マス・コミュニケーション学会第34期第3回研究会「岩波書店百年にみる出版メディア史」http://jmscom.org/archive/event/meeting/34/34-03.pdf)を聞きにゆくため、その準備として纏め読みしたもの。このシンポジウムの報告は『マス・コミュニケーション研究』85号「研究会の記録」にあり(https://doi.org/10.24460/mscom.85.0_241)。

 


森洋介

1971年東京まれだが、転勤族の子で故郷無し。大学卒業後、2000年まで4年間ほど出版編集勤務も(皓星社含む)。2004年より大学院で日本近代文学(評論・随筆・雑文)を専攻、研究職には就かず。趣味は古本漁り。関心事は、書誌学+思想史(広義の)、特に日本近代で――それと言葉。業績一覧はリサーチマップ参照https://researchmap.jp/bookish)。ウェブ・サイトは「【書庫】或いは、集藏體 archive」。


■書物蔵からひと言

今回は、7年前、知的読者に話題になった「岩波書店百年史」についての、正直太郎、ぢゃなかった森さんの批評。

この本は3巻本で、各巻を気鋭の学者先生の単行本として物語形式で書いてもらったもの。だから出版社史としては読みやすい読み物。

私は2巻目の佐藤卓己さんのしか読まなかったが、岩波だけでなく当時の出版史も書いてあり、なかなかオモシロかった。個別の社史なのに背景も書かれて一般史としても読める出版社史は矢作勝美編著『有斐閣百年史』(有斐閣, 1980)あたりが最初かしら。

いちばんオモシロかった第2巻にしてからが、森さんのツッコミだと「出版史なんて研究分野はまだまだ確立に到らず〜大方は俗論の域を出ない」から、佐藤先生が通説として批判の対象にしている言説の出典が明示されていない傾向で――それは「物語」として書いているからしょうがないのだが――それはそれにしても、「通説たるこの本、あの論文を見れば」といった形で示せないのは、日本近代出版史が学問として未成立だからだろうと思う。

佐藤先生はもともとメディア史を標榜しているので、その一つにすぎない出版は任せたというところであろうから、誰かがやらないといけないわけである。

こういった穿った見方を偉い先生の本でもできちゃう――してよい、むしろ望ましい――のがガクモンの良いところであり(習い事だと破門される)、それがサラッとできちゃう(しちゃう?)のが森さんなのであった。

友人代表・書物蔵識

(Twitter:@shomotsubugyo

 

 

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