皓星社(こうせいしゃ)図書出版とデータベース

第18回 男性長寿日本一!――実業之日本社の発展と三省堂の興亡に立ち会った藤原楚水

河原努(皓星社)

 

■珍らかなる出版史関係書を求めて奥多摩へ

東京都奥多摩町に廃校を利用した「奥多摩ブックフィールド」という場所がある。そこには、2019年に廃業した出版ニュース社の旧蔵書を中心に、出版関係コレクションが整理されていると聞き及んでいた。近代出版研究所の面々と「一度覗いてみたいものだ」と話していたところ、同所を管理・運営されている「どむか」さんから小林所長宛に講演の依頼があり、11月初旬に伺うことができた。

同行者は小林・森洋介・河原に、研究所の客員研究員でもある出版史家の戸家誠さんを加えた4人。戸家さんは『近代出版研究』2号の原稿打ち合わせの電話で「こんなイベントがあるので久しぶりに上京できませんか」とお誘いしたところ「どむか君は彼が学生時分から知っているよ。いま忙しいんだけど行きたいなあ」とのことで、なんとか都合をつけて徳島県から上京してくださったのだった。

小林さん、清田義昭さん(元出版ニュース社代表)、実際に旧蔵書の整理にあたっている堀渡さん(多摩デポ・共同保存図書館)それぞれの講演が終わると、「出版ニュースアーカイブ」の見学。さっそく出版人のコーナーへ駆けつけ、戸家さんとあーだこーだと話す。並んでいる半分以上は既知のものだが、やはり中には全く未見のものもある。そういったものがあれば確認したいと思っていたので、ひとまずホッとする。来た甲斐があった。例えばポプラ社社長・田中治男の『わが戦記 ある一兵卒の回想』(ポプラ社、平成21年)。これは「日本の古本屋」で注文できた。あとの珍しいと思った書名はいつか手に入れるまで秘密。

 

■『三省堂書店百年史』『三省堂の百年』の準備稿?

奥多摩ブックフィールドとは直接の関係はないが、前回取り上げた堀内俊宏の自伝『ふたつの坂』のように、出版史関係書にはどこにも公的な所蔵のない本がいろいろある。

例えば、研究所員の森洋介さんから「これは珍しいよ」と言われて借りっぱなしになっている『三省堂を語る』(三省堂、昭和54年)という非売品も、どこにもない本だ(※1)。

三省堂といえば、書店・小売店である三省堂書店の社史『三省堂書店百年史』(三省堂、昭和56年)、出版社としての社史『三省堂の百年』(三省堂、昭和57年)という大部な社史が有名だが、こちらはそれらの準備稿ともいうべきもので「第一部 三省堂の歴史をふりかえって」「第二部 出版者雑感」「第三部 株式会社三省堂の業績」「第四部 三省堂を築いた人々」からなる。序には「本稿は元三省堂社長亀井寅雄氏が、生前私に語りしものの筆録である。したがって、日時の記述は、昭和二十四、五年現在におけるものであることを御了承願いたい」とある。つまり、刊行年は昭和54年だが、中身はもっと古い明治期からの事柄についての昭和20年代の証言というわけである。

また、文中の私とは中国書道史家の藤原楚水(本名・喜一)のこと。彼は戦前から三省堂の出版部顧問をしており、同社刊行の書道誌『書菀』主幹も務めていた。

本書奥付の後記にこうある。

 

本書は、株式会社三省堂の故亀井寅雄社長が、創業者忠一翁の思い出から、創業七十年に至るまでを、年来の知友であり、かつすぐれた助言者であった藤原楚水博士に語ったことがらの記録であります。

藤原楚水先生は、昨年暮れに白寿を迎えられましたが、往事の三省堂についてのこの記録をぜひ残したいと希望され、ここに書物の形をとることになりました。

三省堂は、不幸にして去る昭和四十九年十一月に破綻を来たし、現在、会社更生の途上にあります。しかし、大方の御支援のもと、再建への足どりもようやく軌道に乗り、前途に光明を見るまでになりました。

やがて、創業百周年になろうとする三省堂の社史資料のひとつとして、私家版を作成する所以であります。

 

かいつまんで言うと、創業者、亀井忠一のことから始まる三省堂70年史を、二代目寅雄が藤原楚水に語り、その記録が昭和49年の三省堂倒産を乗り越えて本になった、というもの。余り流通した形跡が見られないのは、三省堂が破綻して再建途上の時期に出されているからであろう。やはり珍らかなる出版史関係書と言えようか。

 

※1 「国会図書館サーチ」「都内図書館統合検索」「CiNii Books」「日本の古本屋」のいずれにも出てこないが、今回調査の結果、逗子市立図書館の藤原楚水文庫には所蔵されていることが判明した

 

 

■楚水の来歴

『三省堂を語る』は亀井寅雄が「述」、楚水が「筆録」となっている。亀井寅雄には追悼文集『亀井寅雄追憶記』(昭和31年)があるが(※2)、楚水についての資料はないかと調べると雑誌『東方学』68輯に掲載された「「学問の思い出」――藤原楚水先生を圍んで」という座談記事を見つけた(※3)。参加者は宇野雪村・谷村憙斎・比田井南谷・榎一雄・鎌田博、書道や東洋史の大物である。

座談によると、楚水が出版界に入ったきっかけは、旧知の実業之日本社創業者・増田義一から「来てくれぬか」と頼まれたからであった。「僕が入った時は、永田(新之允)は兵隊に取られ、都倉(義一)は肺病で、石井(勇)が一人いて、石井が『実業之日本』をやり、僕が『征露戦報』をやった。それが一、二年続きました。『実業之日本』は月二回です。それからだんだん発展して……」(※4)。編集長、理事と累進して昭和3年に退職しているが『実業之日本社七十年史』(実業之日本社、昭和42年)には、入社の記述(20頁)がある以外は特に言及されていなかった。退職後は書道史家をしていたが、昭和7年三省堂出版部の顧問となる。

 

石田(幹之助)、長沢(規矩也)両君のことで三省堂に関係していたことを少し話したが、僕は三省堂に入る前に、実業家になるはずだった。三井合名会社の理事になるはずで、決まっておったんですが、かれこれしているうちに、団琢磨という理事長がピストルでやられた。それで僕の方は足踏みし、そこへ三省堂が潰れかかるということがあって、昭和七年にそっちへ行ったんです。三省堂の二代目社長、亀井寅雄の大学の友人が米山梅吉という人の娘婿だったものだから、米山さんが非常に肩を入れてくれた。

 

三井合名会社の理事なら左うちわだったろうが、血盟団事件(※5)で人生行路が変わってしまったのだなあ。座談に付されていた年譜によると戦後は大学で東洋美術史、中国書道史を講じている。

 

※2 寅雄の母である亀井萬喜子(1855-1927)にも『故亀井萬喜子刀自追想録』(昭和3年)がある

※3 楚水の著書『随筆藻塩草』(省心書房)の第二版(昭和59年)に抜粋・転載されている。なお同書第一版は昭和48年刊

※4 原文は旧字だが新字に直した。人名の補記は筆者による。以下の引用も同じ

※5 昭和7年に起きた連続テロ事件。血盟団と呼ばれる集団が政財界の要人を狙い、井上準之助元蔵相と三井合名会社理事長であった団が暗殺された

 

 

■最長寿の出版人

『三省堂を語る』の後記には「藤原楚水先生は、昨年暮れに白寿を迎えられました」とあるが、「白寿」は漢字の「百」から一画目の「一」を引く、つまり「100-1」で99歳の祝いである。前項で引いた座談「学問の思い出」は104歳の時のもの。長生きした出版人といえば、まず104歳で没した日本出版貿易社長の望月政治(1885-1990)に指を屈するが、楚水はそれを上回っていた。

実は「藤原楚水」をgoogleなどの検索エンジンで引くと一番上に出てくるのは、逗子市役所のホームページにある「逗子フォト」内のこのページ。紹介文を読んでいくと後半に「1912(大正元)年頃、田越村だった頃から逗子に住み、亡くなるまでの約80年間を逗子で暮らしました。109歳で亡くなった1990(平成2)年の時点で、男性長寿日本一でした」とある。現在も平均寿命が伸びつつあるとはいえ、果たして楚水より長生きする出版人は出てくるのだろうか?

 

○藤原楚水(ふじわら・そすい)

本名=藤原喜一(ふじわら・きいち)

実業之日本社理事 三省堂出版部顧問 中国書道史家

明治13年(1880年)12月17日~平成2年(1990年)3月6日

【出生地】大分県西国東郡呉崎村(豊後高田市)

【学歴】明治法律学校〔明治34年〕卒

【経歴】小学校を卒業後、農業に携わる傍ら漢学を学ぶ。明治31年大阪に出て関西法律学校に入学、34年明治法律学校に転校して同校を卒業。37年増田義一に請われて実業之日本社に入社、雑誌『征露戦報』編集に従事。のち同社編集長、理事を歴任。昭和3年退社。7年三省堂出版部顧問となり、12年より同社の書道誌『書菀』主幹。戦後は駒沢大学、東京学芸大学、横浜国立大学などで東洋美術史、中国書道史を講義した。平成2年109歳で長逝、当時の男性長寿日本一であった。著書に『支那金石書談』『現代財界人物』『中国書道史』『図解書道史』『随筆藻塩草』などがある。

【参考】逗子市ホームページ「逗子フォト」、逗子市立図書館ホームページ、『東方学』68輯/1984.7

 


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