皓星社(こうせいしゃ)図書出版とデータベース

第12回 『性生活の知恵』池田書店に前史『葉隠』教材社あり

河原努(皓星社)

 

■ピンポイントで「レファ協」が出版史調査に役立った!

前々回に取り上げた全日空羽田沖墜落事故。この事故で亡くなった業界人の一人に池田書店専務の池田五郎という人がいた。その池田書店の創業者は「池田」敏子だったので、五郎の項目を仕上げるために敏子との血縁関係を調べようとインターネットを検索したら「レファレンス協同データベース」(レファ協)の質問が引っかかった。

池田書店を創立した山形県出身の池田敏子について、彼女の生い立ちや経歴が詳しくわかる資料があれば調べてみたい。」(山形県立図書館の調査回答)

……ピンポイントで調べている人がいるんだなあ。『出版文化人物事典』編集当時に敏子について調べたときには全然気がつかなかった。「レファ協」には次のようにあった。

 

当館所蔵の資料の中で、

下記資料1に

生い立ち (P240~247) 等や略譜 (P253~256) が記載されています。

また「山形新聞2007年5月16日付け7面」 に

山見博康氏による 「戦後の名著 池田敏子(山形市出身)の 「人に好かれる法」 現在に通じる優しさ」 と題した文があり、その中で生い立ち等も記載されています。

 

そのほか、当館では未所蔵ですが、下記の資料をご参考まで併せてお知らせします。

「血族が語る 昭和巨人伝」(文藝春秋社)

P205~209 に長男菊敏氏による小伝が掲載されているようです。

「居直り人生」(池田書店)184P

伝記ではありませんが、氏が来し方を回想し、自身の生き方等を示している内容のようです。

「文芸春秋67(10)」1989.9

「輝ける昭和人」 血族の証言55

P209~211 「池田敏子  日本人の性生活に革命をもたらした女性社長」(池田菊敏)

の中に生い立ち等も記載されています。

 

回答文にある『血族が語る 昭和巨人伝』(文春文庫、平成2年)は高校時代に読んでいるが、そこに池田敏子が載っていたことは全く記憶に無い。

 

■「池田敏子研究家」というピンポイント

上記回答文で“下記資料1”とあるのは、近藤信緒著、山見博康編の『人に好かれる法』(ダイヤモンド社、平成19年)である。近藤信緒は、実は筆名で正体は池田敏子その人。近在の図書館に所蔵されていたので借り出してみると、解説で編者・山見(コンサルティング会社経営)が、自分は座右の書としているので『人に好かれる法』の復刻を志した、そこで池田菊夫池田書店会長(敏子の二男)に連絡を取るところからはじまって云々、と同書について縷々述べている。

この解説文中で著者・敏子の生い立ちが綴られ、別に主要著作一覧表と「略譜」(筆者註・年譜)が付されていた。つまり、ここの部分だけを取り出すと、有り難くも出版史の一資料になっているのである。解説の末尾に添えられた山見氏の肩書は「バリューインテグレーター」に加えて「池田敏子研究家」とあった。……ピンポイントだなあ。

 

 

■池田書店とは

改めて書くと、池田書店は昭和24年に池田敏子が創業した実用書の専門出版社で、同社自身の社史はないものの、取次・日本出版販売(日販)の社史『日販三十年のあゆみ』(日本出版販売、昭和55年)及び、その雛形ともいえる『戦後20年・日本の出版界』(日本出版販売弘報課、昭和40年)などに自社紹介がある他、「読ませる」出版社大事典として明治末期から平成まで120社の横顔を紹介した塩澤実信の大著『出版社大全』(論創社、平成15年)でもページが割かれている。

創業からしばらくは自身の「近藤信緒」名義のものも含め、 荘司達人、堀秀彦、伊福部隆彦、武者小路実篤らの人生論・教養論を主体に刊行した。福田恆存の戯曲『龍を撫でた男』や吉田健一『シェイクスピア詩集』などは読売文学賞を受賞しており、『尾崎一雄作品集』(全10巻)、『下村湖人全集』(全18巻)も出した。32年原稲生『日曜大工』が斬新なスタイルの実用書としてヒット、次第に実用書にターゲットを絞っていく。

 

■池田書店の大ベストセラー『性生活の知恵』

ある時、敏子はお産の本を企画し、さる高名な病院長に名前だけの著者になってくれるよう頼みに病院を訪れた。待合室で何気なく婦人雑誌に手にすると、そこに掲載されていたお産の記事が目にとまった。お産のことをサラッと書いたその記事の筆者は謝国権という当時無名の日本赤十字社産院の医局長で、敏子は病院長ではなく謝に執筆を依頼することを決め、その著書『お産 : らくなお産と上手な避妊法』(昭和33年)を出版。これが好評を博す。

35年に猥褻による発禁を恐れる謝を励まして出版したのが、有名な『性生活の知恵』である。

当時タブーだった性に関する著書、それも性交の体位解説書だったが、同書は猥褻にならないように人形写真を使用するという独創的なアイデアで評判を呼び、半年で40万部以上を売り上げ、英語版80万部も含めて400万部以上の大ベストセラーとなった(購入者の3割は女性だった由)。39年に池田書店は実用書の専門出版社へと完全に転換、今日に至っている。

なお、学習参考書(学参)の専門出版社である同名同業他社の池田書店(創業者は九嶋信英)もあったが、平成16年に自主廃業した(※1)。出版業界では両社を「教養・池田」「学参・池田」と呼んで区別していたと、取次出身の出版史家・戸家誠さんから教えられた。

 

※1 (有)池田書店(学参・教科書)、自主廃業へ

 

■池田書店前史――教材社とベストセラー「葉隠」

『人に好かれる法』と、『血族が語る 昭和巨人伝』に収められた敏子の長男・菊敏による小伝「池田敏子 性生活に革命をもたらした女社長」を参照すると、戦後に創業された池田書店には、前史があることがわかった。

昭和4年敏子は6歳上の高山菊次と結婚したが、彼は文学青年で稼ぎがほとんど無かった。敏子が文句を言うと「お前が俺にいう文句を本にしたらいい」と返されたことから、本当に執筆活動を開始。10年31歳で教材社を創業して高山晴州の筆名で『心理学応用 人を知る法』を出版したのを手始めに、以後料理・化粧・服装・結婚など様々な分野の小冊子を発行して基礎を固めた。14年に出した伊福部敬子『若き母に贈る』もベストセラーとなったが、教材社に莫大な利益をもたらしたのは「武士道といふは死ぬ事と見付けたり」という一句で知られる肥前佐賀藩に伝わる武士の修養書「葉隠」(※2)であった。

 

(そして、)口語版の『葉隠』を出すと、それが爆発的に売れました。火を付けたのは朝日新聞の一面に載った“爆弾三勇士”の記事です。記事には自爆した兵士のポケットに『葉隠』が入っていたと書かれていました。そこに目を付けた陸軍が、その本を副読本にするため、大量に注文してきたといいます。

(『血族が語る 昭和巨人伝』p208)

 

ここで“爆弾三勇士”“葉隠”でインターネットを検索すると『Waseda RILAS journal』6号(平成30年)所収の谷口眞子「1930年代の日本における「葉隠」の普及過程」という論文が見つかった。その「第3章 「葉隠」の全国的普及」にはこうある。

 

(大木陽堂の)『葉隠論語』は1936年3月10日に50銭(筆者註・原文ママ。20銭か)で教材社より刊行されたが、3月15日には早くも再版、4月2日に三版と、出版の勢いはすさまじかった。その後、『葉隠論語抄』とタイトルが変わる(ただし、外装の表紙には「鍋島秘書 葉隠論語抄本」、内表紙は「葉隠論語抄」となっている)。目次、ページ数、内容はすべて同じで、1939年11月15日刊行の『葉隠論語抄』奥付によれば、1936年12月10日10版、1938年6月15日20版、1939年1月18日30版、同年11月15日46版(46版以降は定価50銭)が出版されており、3年8ヶ月で46版というベストセラーであった。(p294)

 

さらに教材社の『葉隠』が売れた理由として、昭和10年に出た栗原荒野『分類註釈 葉隠の神髄』(葉隠精神普及会)が原文を収録した大部(約600ページ)で高価(3円)な本であったことに対して、こう分析している。

 

大木『葉隠論語(抄)』は100頁ほどの小冊子であり、東京の教材社から定価20銭、送料2銭で販売され、一般大衆を読者に想定して売られた。「葉隠」感話として、合計76の話が1頁に1つくらいの分量で紹介されている。「柳生流兵法の極意は死ぬ事」「諫言は人に知られぬ様に」「奉公は好き過ぎて過ちあるが本望」などのタイトルが目次に並び、手に取りやすい体裁で、平易な現代語で説明されている。以上のような体裁や文体、想定読者層や新聞広告による宣伝効果もあって、ベストセラーになったのだろう。(p296)

 

……よくもまあ、こんなドンピシャリの論文が見つかったものだ。

教材社は「読切雑誌」「修養雑誌」を出していたが、太平洋戦争末期に戦時の企業整備(国策による企業の強制統廃合)により「読切雑誌」は他7社と統合して光文館に、「修養雑誌」は他3社と統合して山一書房になった。国会図書館所蔵の教材社の本は19年刊行が最後になる。

 

※2 正式名称は『葉隠聞書』、別名を『葉隠論語』『鍋島論語』という

 

■「居直り人生」

「葉隠」は教材社に莫大な利益をもたらしたが、金回りが良くなった夫の高山は愛人を作り、その“二重生活”が敗戦後に敏子にばれたことから離婚(※3)。敏子は子供5人を全員引き取って旧姓の池田に戻り、改めて池田書店を創業したのであった。

国会図書館に行った際、敏子本人の言葉でその生涯を辿ろうと「氏が来し方を回想し、自身の生き方等を示している内容のようです」と「レファ協」に書かれていた『居直り人生』を出納してみたが、序文に「この本は、私が息子、娘、そして嫁や婿また部下達に、遠慮もなくたたきつけたと言ってもよい小言集です」とあり、自伝的な内容ではなかったので残念。山見編の復刻版『人に好かれる法』の年譜に「〔同書は〕「池田敏子」として最初で最後の著作」と書かれていたが、国会図書館本(カバー欠)の奥付では近藤信緒著になっていたことも書き添えておく(※4)。

 

※3 高山菊次は総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』(日比谷政経会、昭和24年)に拠ると「教材社店主兼編集長」として公職追放も受けている

※4 〆切間際の先週5月19日に個人送信が可能になった「国立国会図書館デジタルコレクション」で池田敏子を検索したら、池田敏子名義で『デート・ブック』(池田書店、昭和38年)という著書があるのに気がついた

 

 

○池田敏子(いけだ・としこ)

筆名=近藤信緒(こんどう・のぶお)、高山晴州(たかやま・せいしゅう)

池田書店創業者

明治37年(1904年)1月13日~昭和59年(1984年)7月5日

【出生地】山形県山形市

【学歴】東京保母伝習所卒

【経歴】8人(7人との資料もあり)弟妹の長女。山形市で生まれ、高等小学校を卒業。十代半ばに一家で上京し、教会の日曜学校に通い、東京保母伝習所を卒業した。昭和4年高山菊次と結婚。10年教材社を創業する傍ら、高山晴州の筆名で執筆活動を始め、自社から『心理学応用 人を知る法』『人の統率法』『成功者に学ぶ人生字引』などを刊行。11年同社から出した大木陽堂『葉隠論語』が爆発的に売れ、14年には伊福部敬子『若き母に贈る』もベストセラーとなった。19年同社は戦時の企業整備で光文館及び山一書房に分割統合される。21年離婚して池田姓に戻る。24年池田書店を創業、近藤信緒の筆名で「教養書選」シリーズとして自著を復刻、また新たな著作も出し、『人に好かれる法』は50万部以上を売り上げた。32年原稲生『日曜大工』が斬新なスタイルの実用書としてヒットし“実用書の池田書店”の基礎を築いた。35年に刊行した謝国権の性交体位解説書『性生活の知恵』は人形写真を使用するという独創的なアイデアで評判を呼んで半年で40万部以上を売り上げ、英語版80万部も含めて400万部以上の大ベストセラーとなった。39年実用書の専門出版社に完全転換。41年2月に起きた全日空機の羽田沖墜落事故で末弟の池田五郎専務が急逝した。49年長男の菊敏に社長を譲り、会長に退いた。

【参考】『血族が語る 昭和巨人伝』文芸春秋〔編〕/文春文庫/1990.3、『人に好かれる法』近藤信緒〔著〕、山見博康〔編〕/ダイヤモンド社/2007.4

 


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