皓星社(こうせいしゃ)図書出版とデータベース

第11回 “生きていた幽霊”文潮社の池澤丈雄――人名事典で死んでいた人が生きていた話

河原努(皓星社)

■古本フレンズ

近代出版研究所の主要活動に古本行脚がある(私は皓星社社員の傍らで研究所事務局を兼務)。「三人寄れば文殊の知恵」というが、お互いに関心分野を知りつつ得意な分野も違うので、一人では見落とす本を拾えたり、既知の本を教え合ったりする。その日も所長と一緒にある古本市を流していたら、ワゴン台で池澤伸介『文豪のおごり』という本が目にとまった。版元はオカルトもので有名な大陸書房、聞いたことのない著者の本だが三流作家の文壇回想ものかしらと手に取って目次を見ると、前章が「新興出版〈文潮社〉の誕生」、後章が「崩壊」と題され、後章の小見出しが「返本ラッシュ」「ゾッキ屋」「高利の金」「倒産整理屋」「ついに差押え」「連鎖倒産」「離散」「落伍」……。これはヘンな本を引き当てたなと、所長に注進し、同書は氏の蔵書に収まった。

 

 

■池澤伸介=池澤丈雄

同書奥付には著者略歴がないので「池澤伸介」という名前でインターネットを検索してみる。まず他に著書がないか「NDLオンライン」を引くと『うつろ船伝奇』(双葉新書、昭和40年)なる時代小説と、作品が採られた志村有弘編『忍法からくり伝奇』(勉誠出版、平成16年)というアンソロジーが各1冊ずつあるきり(後日NDLで確かめると両書とも略歴は無く、志村の解説も把握している池澤作品の羅列であった)。「日本の古本屋」を検索しても『文豪のおごり』以外の著書が無く、執筆した大衆小説雑誌があるのみ。「Googleブックス」でもめぼしい情報はつかめなかった。そうすると何もないところから『文豪のおごり』の本文に目を通し、池澤伸介なる人物の経歴を洗い出すことになる。

始めの方に「昭和21年9月に文潮社を創業した」「戦前に同じ名前の同人雑誌社をやりながら、なんばのデパートに勤めていた」「昭和17年頃は日本出版配給(日配)に勤務」「私の処女出版『創作と随筆』は」とあった。『創作と随筆』を「NDLオンライン」で引くと、出てきた。『創作と随筆』池沢丈雄著(笛同人会、昭和13年)とある。「アレ? 池沢丈雄? その名前、見覚えがあるぞ」と手元の『出版文化人物事典』を引いてみたら、立項していた。

 

○池沢丈雄(いけざわ・たけお)

文潮社創業者

明治43年(1910年)11月25日~昭和26年(1951年)2月16日

【出身地】兵庫県洲本市

【学歴】日本大学法科卒

【経歴】百貨店員、製薬会社広告部員、雑誌記者、日本出版配給嘱託を経て、昭和21年文潮社を創業。雑誌『文潮』や文芸書を出したが、24年廃業した。著書に『創作と随筆』がある。

 

百貨店と日本出版配給に勤務して、昭和21年に文潮社を創業とあるので、池澤伸介は池澤丈雄であることは間違いない。でも26年に死んだ人が何故、58年に『文豪のおごり』を出せるのだ?(※1)

 

※1 上記項目の訃報典拠は『帆刈出版通信』昭和26年3月1日号の訃報記事。「池沢丈雄(元文潮社長) 病気のため二月十六日世田谷区北沢二ノ一七三の自宅で死去した、四十二歳、兵庫県洲本の産、日大法科卒、百貨店員、雑誌記者、日配嘱託等を経て昭和二十一年文潮社創立雑誌「文潮」の外文芸書を盛んに出版したが不幸挫折し一昨年夏廃業した、著書に「創作と随筆」外数種ある」(出典の旧字は新字とした)。この記述と『出版書籍商人物事典』第2巻(金沢文圃閣、平成22年)から立項した記憶がある。なお『出版文化人物事典』は新字で記述するルールがあり、NDLの書誌データも「池沢」表記だが、本稿では「池澤丈雄」で通す

 

■文潮社について

とりあえず『文豪のおごり』を読み進める。経歴にある雑誌記者とは、戦時中に総合誌『創造』の編集長だったことを指すようだ。戦後に日本出版配給(日配)時代に特に親しかった鍛冶忠一同社取引課長に独立の相談をすると「出版をやるなら今をおいてない」「日配出身者としてウチも全面的に協力する」との後押しを受け、昭和21年9月に文潮社を創業。社名は戦前にやっていた同人雑誌社の名前に愛着があったので同じものを選んだ。処女出版は山本有三『風』。製薬会社(わかもと製薬)広告部員時代の先輩で出版企画ブレーンの藤井継男がジャーナリスト・馬場恒吾の甥という関係から、馬場と親しかった山本宛の紹介状を手に入れたのだった。「文潮(ぶんちょう)という社名もよくない。鳥の名前と間違う」「ムリして高い本をつくるなよ、定価は出来るだけ安くするように」などと言われたが、なんとか許しを得て初版1万部を日配に納品すると3日目には追加1万部の注文が入り、なんとか3万部まで増刷して現金10万円という大金を手にした。

第2作は舟橋聖一『男』、第3作は太平洋戦争秘話ものの三増英夫『混沌の記』、第4作は芹沢光治良『巴里に死す』と順調に本を出し、『季刊文潮』という文芸誌も刊行。出版企画には無名時代の水上勉が関わっており、その処女作『フライパンの歌』は文潮社の出版である。水上はこの時代のことを「その人の涙」「浦和にいた頃」などに記している。

文潮社は戦後の新興出版社の中でも旗手の一つと目されていたようだが、いくつかの要因で転落していく。一つは、初期に紙を横流ししてくれていた印刷所社員が馘首されたため社内に迎え入れたが、この人物が勝手に粗悪な紙を使ったことで信用を落としたこと。もう一つは、妻の縁戚ということで入社させた人物から社内叛乱を起こされたこと。さらに大量の返本をゾッキ本屋に流したところ付き合いのある新刊書店に詰問され、その新刊書店から他店への根回し用にとせびられやむなく渡した一万円の小切手が不渡りとなったこと。やがて金策に窮して高利貸しから金を借りるようになり、昭和24年、ほぼ唯一の取引先であった日配がGHQから閉鎖機関の指定を受けて活動を停止すると(※2)、文潮社は完全に行き詰まった。

 

※2 日配の活動停止は多くの出版社に衝撃を与え、倒産する出版社が続出した

 

■生きていた幽霊

そのしばらく前から、池澤は煙草を吸うと出る猛烈な咳に悩まされていたが、ぜんそくの発作と思い込んで医者に行かなかった。ある日、3歳の娘が結核性脳炎と診断されたことで自身が結核を患っていることが判明、病み衰えた池澤は結核療養所である国立療養所村山病院に入院を余儀なくされた。結核の特効薬であるストレプトマイシンと右側肋骨7本切除という大手術のおかげで命を繋ぐも、社会復帰には8年かかった。池澤は出版界には戻らず、再会した水上勉に教えられたF社という娯楽雑誌社へ原稿を持ち込み、大衆小説作家として再出発した。F社は最初に挙げた単著『うつろ船伝奇』を出した双葉社であろう。

『文豪のおごり』の最後は「生きていた幽霊 「あとがき」にかえて」という一文で締められている。本文134ページに「のちに私が入院先の療養所で死んだという誤報が出版業界紙で報じられたとき」とあったのだが、その誤報を書いた記者と神田の路上でバッタリ出会ったときの思い出が書かれている。

 

その折り、神田の路上で行き会った堀野という業界紙の記者のことを私は忘れられない。堀野氏は、私の顔を見るなり、かっと目を見ひらき、あっと声をあげたまま、私から声をかけるまでだまっていた。声が出なかったらしい。

 

「あんた、生きてたの!」

 

ややあって堀野氏が発した第一声はこれである。それからまたしばらく絶句して、私の顔を穴のあくほど眺めていた。この堀野氏が業界紙に私の死亡記事をのせた本人なのである。死んだとばかり思いこんでいた私がふらふら神田の人混みの中を歩いていたものだから、その驚愕ぶりも察するにあまりがある。堀野氏にしてみれば、私はまさに生きていた幽霊ということにでもなるのだろうか。(p216)

 

私も誤報に踊らされて『出版文化人物事典』に誤った訃報を掲載してしまった訳だが、堀野という名前の業界紙記者というと『出版文化人物事典』にも立項した「出版新報」の堀野庄蔵が思い浮かんだ。せっかくなのでと国会図書館で「出版新報」の昭和26年3月頃を参照してみたが池澤の訃報記事は見つけられなかった(見落としたか……)。「帆刈出版通信」には自宅で亡くなったとあったので、「入院先の療養所で死んだ」と書いた出版業界紙がまた別にあるのだろうか。

『文豪のおごり』刊行後の大衆小説作家・池澤伸介の足取りはつかめていない。

 

○池沢丈雄(いけざわ・たけお)

筆名=池澤伸介(いけざわ・しんすけ)

文潮社創業者 小説家

明治43年(1910年)11月25日~没年不詳(※3)

【出身地】兵庫県洲本市

【学歴】日本大学法科卒

【経歴】『サンデー毎日』大衆文芸佳作入選の経歴があり、同人誌活動を行う。昭和13年著書『創作と随筆』を自費出版(序文は白井喬二、装丁は鍋井克之)。高島屋店員、わかもと製薬広告部員を経て、白井の推薦で日本出版配給(日配)の嘱託を務める。戦争末期は創造社で総合誌『創造』編集長。21年9月日配時代に特に親しかった鍛冶忠一同社取引課長の後押しを受けて文潮社を創業、処女出版は山本有三『風』。続けて舟橋聖一『男』、三増英夫『混沌の記』、芹沢光治良『巴里に死す』などを順調に刊行、文芸誌『季刊文潮』も出す。出版企画には無名時代の水上勉が関わっており、水上の処女作『フライパンの歌』は同社の出版である。戦後の新興出版社の中でも旗手の一つと目されたが、やがて経営に行き詰まり、日配の活動停止も重なって倒産。自身も結核を病んで療養生活に入り、出版業界から姿を消した。社会復帰後は池澤伸介の筆名で大衆小説作家として活動、同名義で著書『うつろ船伝奇』『文豪のおごり』がある。

【参考】『帆刈出版通信』1951.3.1、『出版書籍商人物事典』第2巻/帆刈芳之助〔著〕、金沢文圃閣編集部〔編〕/金沢文圃閣/2010.8、『文豪のおごり』池澤伸介〔著〕/大陸書房/1983.7

 

※3 『出版文化人物事典』では物故者のみを採録する編集方針であったため没年がわからない人物で100歳以上になる場合は亡くなっていると判断し「没年不詳」として立項した(河原努「『出版文化人物事典』における人物調査の方法」『文献継承』23号(2013.10)参照)。年齢に関して再検討はするものの、同書の増補改訂版でもその編集方針は踏襲する。誤情報で迷惑をかける可能性は低く、立項そのものに意味があると判断するからである。現実には日本出版貿易社長の望月政治(1885-1990)のような長命な人もいるが……

 


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