皓星社(こうせいしゃ)図書出版とデータベース

第10回 出版界を震撼させた全日空羽田沖墜落事故

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河原努(皓星社)

■出版界で一番の大事故

出版関係者の訃報調査をしていると、全く同じ日に亡くなっている人を見つけることがある。光文社社長を務めた五十嵐勝弥と地人書館創業者である上條勇は同じ昭和50年1月2日に亡くなっているが、これは全くの偶然だ。しかし、同じ事件・事故に巻き込まれて亡くなるということもあり、本連載の第三回で取り上げた広島への原爆投下はまさにそういった例である。原爆や東京大空襲、関東大震災といった死者の数が不明な大事件は別として、一度に著名な出版関係者が亡くなった事故は何かといえば、41年2月4日に起こった全日空羽田沖墜落事故であろう。この航空事故は当時航空史上最大の惨事と言われ、搭乗していた133人全員が死亡した(※1)。出版関係者の生没も含めて出版界の出来事を記録した『出版百年史年表』(日本書籍出版協会、昭和43年)には次のように記載されている。

2.4 全日空ジェット旅客機,東京湾上で墜落,全員133名が遭難.死亡者中に北海道雪まつりから帰途の出版関係者24名(下記)が含まれ,大衝撃を与える.
2.4 池田五郎(池田書店専務取締役.1918.10.12〜)
2.4 岩淵五郎(春秋社編集長.1918.11.10〜)
2.4 大下正男(美術出版社社長.1900.1.30〜)
2.4 清田幸雄(内外出版社社長.1919.9.4〜)
2.4 篠武(啓佑社社長.1925.5.25〜)
2.4 柴田乙松(誠信書房社長.1920.7.9〜)
2.4 柴田良太(柴田書店社長.1924.9.23〜)
2.4 篠田光夫(白水社編集部次長.1923.1.23〜)
2.4 陣内和弘(東弘通信社主任.1937.5.24〜)
2.4 鈴木恵右(※2)(鈴木糧食研究所常務取締役.1933.3.12〜)
2.4 高橋寛衛(有紀書房監査役.1914.5.7〜)
2.4 武正博(日本交通公社出版事業部宣伝係長.1926.1.2〜)
2.4 中藤正三(錦正社社長.1914.2.6〜)
2.4 南雲正朗(南雲堂専務取締役.1928.3.28〜)
2.4 南条安昭(共立出版社長.1930.1.24〜)
2.4 野村利成(牧書店取締役.1902.1.26〜)
2.4 早嶋喜一(旭屋書店会長.1900.12.28〜)
2.4 日暮二郎(東海大学出版会編集長.1924.10.2〜)
2.4 藤原省一(大日本図書書籍部長.1925.4.6〜)
2.4 細田教人(第一法規出版出版部長.1907.11.28〜)
2.4 松岡清吉(東弘通信社社長.1922.4.1〜)
2.4 三浦正夫(北海道新聞東京支社広告課長.1932.4.1〜)
2.4 山口琳之助(東弘通信社専務取締役.1927.7.11〜)
2.4 吉野元章(裳華房社長.1931.3.25〜)

※1 この事故については高知聡『墜落 : 全日空機ドキュメント』(さんいちぶっくす、昭和44年)に詳しい。同書は『日本古書通信』(令和4年3月号)の小田光雄連載「古本屋散策(240)「さんいちぶっくす」と高知聡『墜落』」で取り上げられていて、初めて知った。筆者は「古通」を講読しておらず、今号の題材を知っていた小林昌樹さんから「小田氏が同じタイミングで同じ事故について書いているよ」と教えられ、奇縁に驚いた
※2 『涙痕録』(後述)や『出版クラブだより』(昭和41年2月1日号)などに拠ると「鈴木」ではなく「鈴村」が正しいようだ

 

■出版関係者の北海道旅行

書籍広告の代理店・東弘通信社は、個性のはっきりした書籍を出している中小出版社に北海道へのスポンサー招待旅行の声をかけ、22社が応じた。これ以外に東弘通信社から松岡清吉社長、山口琳之助専務、陣内和弘主任が、北海道新聞社から三浦正夫東京支社広告課長が同行している。2月2日朝に羽田を出発、2時間後には函館に到着。トラピスト修道院を見学して、その日は洞爺湖温泉に宿泊。翌3日は昭和新山、洞爺湖を見学して札幌へ移動、定山渓温泉に宿泊。4日の午前中にさっぽろ雪まつりを見学、午後6時前に一行を乗せた全日空機は千歳空港を離陸した。

この時、所用があり飛行機に乗らなかったのは3人。東京大学出版会理事の中平千三郎、三笠書房営業部長の前田覚、そして大和書房(だいわしょぼう)創業者の大和岩雄(おわ・いわお)。大和は昭和45年に来し方を振り返るために自分が書いた物・自分について書かれた物をまとめた『明日の記念に』(※3)を百部限定で出版しており、同書の「8」にこの事故に絡む記事をまとめている。以下、同書に拠り事故前後の状況を覗いてみよう。

※3 平成23年に大和書房から2版が出ているがそちらは未見。東京都立中央図書館に所蔵(国会図書館は未所蔵)、書誌情報によると初版と頁数が同じため増補はないと思われる。大和書房の事実上の最初の社史である

 

 

■生と死の記録

当時の大和書房は昭和36年に創業したばかりの新興出版社で、創業間もない38年に大学生の河野実(マコ)と難病に冒され21歳で亡くなった大島みち子(ミコ)の往復書簡集『愛と死をみつめて』が約140万部の大ベストセラーとなり、一躍注目を集めていた。

40年暮れ、創業者の大和は『愛と死をみつめて』の映画化に際して知り合った日活企画部の増井正武から、北海道の女性を主人公とした作品の出版権と映画化権を一緒にとらないかと誘われていた。1月中旬に女性のもとを訪れる約束をした2人だったが、お互いに都合が悪くなり2月に延期。そこにたまたま北海道旅行の招待を受けたためこれに応じて、最終日に別行動を取り増井と落ち合うことにした。日活札幌支社に増井を訪ねるも不在、「今飛行場に行けば6時前の便に間に合うな」と思ったものの、日活の小松宣伝課長が宿を取ってくれたので滞在を1日延ばすことにして難を逃れたのであった。

この時、大和と増井が訪ねたのは小神須美子という若い女性だった。小神は18歳で血管腫という病気を発症、下半身麻痺で歩けなくなった。治ると思っていたのに治らなかったという衝撃から、幼い日よりの日記を読み返して立ち直ろうとする気持ちを新聞に投稿したところ、多数の激励を受けた。同時に多くの映画化や出版の話が持ち込まれ、一時は恥ずかしさから日記帳の一部を焼き捨てたものの、重体から小康を取り戻したときに、生きているありがたさを感じて出版を決意。焼き捨てて空白となった21歳から23歳までの記録も思い出すままに書き改めて、航空事故から半年後の41年9月に『終りなき生命を : 生と死の記録』として出版された(同名映画は吉田憲二監督、和泉雅子主演で製作・公開)。

大和は打ち合わせの際、こう言った。「小神さん、あなたは寝たきりで、世の中の何の役にも立っていないと悲しむが、あなたが生きていてくれた、ただそのことが、一人の男の命を救ったんです。あなたがもし死んでいたら、いま、ぼくも死んでいた」。大和は昨年(令和3年)、93歳の天寿を全うした。

 

■『涙痕録』と『出版人生死録』

昭和41年5月18日に日本出版クラブで催された事故の百日法要(出版関係全日空遭難者追悼法要)の際、参列者に『涙痕録』(電通、昭和41年)という36頁の小冊子が配られた。亡くなった24人各人に縁の深い人物が短い追悼文を寄せ、ポートレートと略歴を付したもの。末尾には難を逃れた中平、前田、大和の3人もそれぞれ「生と死の間で」「二カ月後の北海道より」「別れ」という文章を寄せている。前田については調べてもその後はわからなかったが、中平は平成13年に77歳で亡くなっている。

中平は出版人の傍ら、宮沢賢治や石原莞爾が信仰していたことでも知られる日蓮主義による在家仏教教団・国柱会の理事長でもあった。宗教人でもあったこと、事故から九死に一生を得たことが関係しているかはわからないが、晩年『出版人生死録』(平成8年)という小冊子を編集・発行している。これは箱根の芦ノ湖畔に所在する、近代日本の出版業界功労者を祀った出版平和堂の顕彰者名簿(昭和44年の第1回から平成7年の第27回まで845人)を、各人の生まれた日・亡くなった日(1〜31日)順に整理して、その上で生まれた年の早い順に排列したもの。出版人のレファレンスツールを探している過程で手にして「これは(レファレンスツールとしては)使えないなあ」と思ったが、そもそもそのような用途の冊子ではなく、故人先達を偲ぶためのもの。「逝去」の「4日」の頁を開くたびに、中平は一緒に短い旅をした仲間のことを思い出したに違いない。

 

○大和岩雄(おわ・いわお)
大和書房創業者 日本古代史研究家
昭和3年(1928年)2月15日〜令和3年(2021年)6月20日
【出生地】長野県上伊那郡高遠町(伊那市)
【学歴】長野師範学校(現・信州大学教育学部)〔昭和23年〕卒
【経歴】昭和23年5月長野師範学校(現・信州大学教育学部)を卒業して長野県下伊那郡大鹿村の鹿塩中学校に赴任するが、同年12月退職。24年移り住んだ長野市で山本茂実が発行する人生誌『葦』2号と出会い、4号から同誌編集に従事。当時21歳。25年末上京、27年1月寺島徳治との2人出版社である文理書院から人生誌『人生手帖』を創刊、昼は隔月刊の『葦』、夜は月刊の『人生手帖』を編集したが、3号で『人生手帖』の見通しが付いたので『葦』の編集から退く。『葦』『人生手帖』は最大時で7〜8万部を発行して人生誌の双璧と目され、上級学校へ進めなかった青年男女から支持された。31年『葦』の営業担当であった小沢和一と半額ずつ出資して青春出版社を設立、編集担当の代表取締役(小沢は営業担当の代表取締役)。35年雑誌『青春の手帖』を創刊、36年同誌の営業編集一切を手がける青春の手帖社を設立、同社代表取締役を兼務。38年雑誌出版から手を引き、社名を大和書房(だいわしょぼう)に変更。若者向けの人生書、名も無い人の手記の出版を創業意図とし、同年末に大学生の河野実(マコ)と難病に冒され21歳で亡くなった大島みち子(ミコ)の往復書簡集『愛と死をみつめて』を出版すると約140万部の大ベストセラー(39年度の年間ベストセラー)となり、創業期の基礎が固まった。40年には当時無名であった加藤諦三の人生論『俺には俺の生き方がある』を出版、ロングセラーとなる。以後も自己啓発書、女性書、教養書、ビジネス書、生活実用書、学習参考書、歴史書、事典など幅広い出版活動を展開。41年2月に起きた全日空機の羽田沖墜落事故で出版関係者20名余が亡くなった際には直前に所用で一行と別れたため、九死に一生を得た。63年長男の大和和明に社長を譲り会長に退く。『古事記成立考』『鬼と天皇』『秦氏の研究』などの著書がある古代史の研究家としても知られ、季刊の古代史専門誌『東アジアの古代文化』の編集も担当した。
【参考】『明日の記念に』大和岩雄/1970.2

 

○中平千三郎(なかひら・せんざぶろう)
東京大学出版会常任理事 国柱会理事長
大正13年(1924年)2月20日〜平成13年(2001年)3月27日
【出生地】大阪府大阪市
【学歴】青島中卒→旅順高〔昭和19年〕卒→東京大学文学部社会学科〔昭和24年〕卒
【経歴】父・中平清治郎は日蓮主義による在家仏教教団・国柱会創始者である田中智学の直弟子で、自身も国柱会の理事長を務めた。昭和7年父の上海行きに従い、青島中学、旅順高校に学ぶ。19年繰り上げ卒業して東京帝国大学社会学科に入るが、20年6月上海で現地召集され、8月同地で敗戦を迎えた。21年復員して大学へ復学。戦後、上海で本の露天商をした経験を生かして大学の書籍部に関係、26年東京大学出版部(現・東京大学出版会)創立に参画。以来、事務局長、常任理事として業務運営に携わり、60年定年退職した。38年各大学出版部へ呼びかけて大学出版部協会を設立。日本書籍出版協会常任理事を務めた。41年2月に起きた全日空機の羽田沖墜落事故で出版関係者20名余が亡くなった際には直前に所用で一行と別れたため、九死に一生を得た。著書に『出版千凡録』『出版人生死録』などがある。
【参考】『中平清治郎と妻道子』中平千三郎〔編〕/1986.11

 


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