皓星社(こうせいしゃ)図書出版とデータベース

第9回 労組が作った饅頭本――三省堂の横山茂と笹沢健

河原努(皓星社)

■饅頭本の多い分野は?

原稿を集めて、編集をして、印刷をして1冊の本を作る。それには今日でも最低で百万円程度は必要である。その事実をふまえると「饅頭本」――追悼録を古書業界でこういう――は売り物ではない“紙碑”としての本であるから、誰にでも作られる訳ではない。作るに値するだけの理由と費用の両方が必要である。これまで古書展や図書館などで様々な饅頭本を目にしてきたが、多い分野は政治家や官僚、企業経営者、教育、宗教、あとは早世した人だろうか。

以下は全て印象だが、政治家や官僚、企業経営者は費用を捻出するのが容易なので、函入りでいい紙を使った饅頭本が多い。浮世の義理か執筆者も多く、従って厚くなりがちだ(※1)。

対して教育者や宗教家(キリスト教が多いように思う)、早世した人のものは、亡き人を追慕しようという意思が先に立っており、それらの人々は必ずしも裕福というわけではないので本自体は薄く簡素なものが多い。ただし教育者の中でも“学校の先生”ではなく学者になると造本が立派になる。これは基本的に著述を残す分野のため遺稿集を兼ねる一方で、やはり師弟関係という義理の側面もあり、学者の饅頭本は政治家などのものに近いのだと思われる。

 

※1 政治家の饅頭本を見るたびに「立派過ぎて場所塞ぎだなー」と思うが、友人の岸本元(@bowwowolf)はそれらを収集して広義の宗教という観点から政治家を切り取り『宗教と国会議員』という同人誌シリーズを出している。それらをリライトして再編集した『日本「宗教系国会議員」総覧: 僧侶・神職・牧師から仏像マニア・教祖まで600人超』もある

 

■さて、出版人の饅頭本は?

出版人の饅頭本だが、こちらも隣接分野である新聞や印刷と並んで、比較的多く目にする印象がある。関係者が本作りを生業としていることから実作業のハードルが低い上に、作家など執筆を生業とする人たちが書き手となることが多く、原稿が集めやすいことも一因と考えられる(発表する文章を書くという作業が意外と素人には荷が重いことは、国語の授業で作文が苦手だった人にはよくわかる話かと)。

前回取り上げた大高利夫、新田満夫といった出版社の創業者や社長のものは社史に準ずるという意義もあってより作られやすく、前々回の藤村耕一と北村秀雄といった編集者のものもまた、それこそ作家たちとの直接のつながりから作られやすい(藤村には教育者としての一面もあった)。

編集者といってもさすがに取締役編集局長や雑誌編集長など、ある程度の地位に昇った人のものが多いが、今回取り上げる2冊は一社員の饅頭本で、それは割と珍しい。ただし、2人とも「一社員」の前に「早世した」という言葉がつくので、カテゴライズでは「早世した人」に入るだろう(※2)。

「早世した」「社長」では大和書房2代目社長・大和和明(41歳没)の『大和和明追悼集 追想』(平成7年)という饅頭本もあり、これは国立国会図書館(NDL)を含めた都内の公共図書館がどこも所蔵していない本だ。

 

※2 サブカテゴリとしては「文芸活動」なども考えられる。例えば中央公論社出版部長であった篠原敏之は俳人・篠原梵としての名がより有名で、『葉桜』(昭和51年)という饅頭本がある

 

■『横山茂・生と死 : ある編集者の肖像』

『横山茂・生と死』(昭和45年)は、『出版文化人物事典』(平成25年)の〆切間際に知った本で、これもNDLを含め都内の公共図書館がどこも所蔵していないため内容を確認できず、残念ながら同書に横山氏を収録できなかった。最近、当時のメモからその存在を思い出して調べてみると「日本の古本屋」に掲載されていたので、購入した。

横山茂(1928-1968)は「三省堂新書」創刊に携わった三省堂の編集者で、そのためだろうか『横山茂・生と死』は同新書と同じ装丁をしている(奥付には非売品とある)。同新書の通し番号1番が秋田で活動していたむのたけじの『詞集たいまつ』であるのは横山の志で、その後もむの同様に秋田在住である白鳥邦夫の『ある海軍生徒の青春』(通し番号13)や野添憲治の『出稼ぎ』(通し番号38)、山形在住の真壁仁『人間茂吉 上・下』(通し番号6及び11)などを手がけ、他社の編集者から“東北帝国主義”といわれた由。

だが、新書発足(昭和42年9月)から半年足らずの43年1月、『月と兵隊と童謡―若き詩人の遺稿』(通し番号17)の著者(結城よしを)の父が山形から上京した際、新書300冊が詰まった段ボール4箱を持って上野駅まで見送り、網棚に重い段ボールを乗せようとして椎間板ヘルニアを発症して入院。その労災認定を巡って三省堂労働組合が会社側と闘争を行う中で腫瘍が見つかり、同4月に急逝した。享年40。

『横山茂・生と死』はむの・白鳥・野添・真壁らを含む有志からの「追悼のことば」(追悼文)に続いて「死によってあがなわれたもの――記録・横山さんと労災闘争」が立てられ、約40頁にわたって会社と組合とのやりとりが記録されている。それは三省堂労組が主体となって作った本だからで、こういう饅頭本は初めて手にした。後半は「遺稿」(故人の文章)、「横山を語る」(小伝・座談会など)と計4章からなる。「遺稿」に目を通していると「笹沢君という人」という一文があった。「これは追悼文なのでは?」と思って初出をみると「笹沢健追悼文集『墓標と道標』」とあった。

 

 

■『墓標と道標 : 笹沢健追悼文集』

墓標と道標 : 笹沢健追悼文集』(昭和36年)は、NDLでデジタル化されていた。さっそく足を運んで読んでみると、これも労組が編んだ本だった。

笹沢健(1927-1960)は三省堂で教科書を編集する傍ら、出版労働組合懇談会(出版労懇)とその後身である日本出版労働組合協議会(出版労協,現・日本出版労働組合連合会=出版労連)の教科書対策会議で重きをなした。しかし、同会議の次期議長と目されていた昭和33年、同じ教科書出版部の部員2人と教科書売り込みの現場に“不当配転”させられ、35年自宅の浴室でガス自殺した。享年32。

『墓標と道標』の最初には「一つの死」と題する詩が置かれていた。作者は笹沢美明。「あれ、この人は作家の笹沢左保の父では?」と気づいた。次に置かれていたのは城山三郎「愛惜の人」。城山は当時直木賞を受賞してそれほど時間が経っておらず(昭和33年下半期)、まだ作家として駆け出しの頃の文章だが、この一文は城山の著作のどこかに収録されているだろうか? その文中に次の一節があった。

 

そして昨年春、神保町の喫茶室で別れぎわに「ぼくの弟も小説書きになりました」と、はにかむような笑いとともに話してくれた。そのとき、ぼくは面くらうほど優しい兄弟愛といったものを感じて、あらためて彼の顔を眺め返したものである。それが彼の見納めであった。(p3)

 

■『詩人の家』

笹沢健は、やはり笹沢左保の兄のようだ。両親は『墓標と道標』に文章を寄せているが、左保(本名・勝)は寄稿していない。左保は多くの著書がある割にエッセイ集は少なく、肉親についての言及を探して自伝的小説『詩人の家』(文芸春秋、昭和54年→文春文庫、昭和58年)にたどり着いた。

同書は6つの連作短編からなり、そのうち第2話「敗北の微笑」が、作家である主人公・笹本三郎の次兄・次彦の話に当てられていた。次兄は旧制高知高校を出て高崎で中学校教師を務めた後、「辞書と教科書の老舗として知られる大手の出版社の、教科書編集部に勤めていた」(p68。以下引用は全て単行本に拠る)。そしてある日、葛飾区青戸の団地でガス自殺する。これは笹沢健の人生そのものだ。三郎に、梅田と名乗る兄の会社の後輩が言う(『墓標と道標』には健の後輩でのち高文研代表となる梅田正己も執筆している)。

 

「いま、教科書に関しては、いろいろと微妙な段階にあるんです。それで会社側としては、共産党のシンパだという笹本さん(筆者注・ここでは次彦のこと)を教科書編集部から追い払ったんですよ」

「ほう」

「笹本さんはこの三カ月間、学校回りで疲れ果てたと言ってました。当然でしょうね。馴れない仕事というより、もともと肌が合わないんですから……。やる気をなくしたとも、笹本さんは言ってましたよ」

「そうですか、そんなことがあったんですか」(p75)

 

「敗北の微笑」には、笹本三郎と次彦の仲が「あまりいいほうではなかった。よく喧嘩をするとか、憎み合っているとかいう仲の悪さではない。結果的に互いが、ひどく冷淡な仲になったのである。なぜ、そうなったのか、具体的な理由はない。いつの間にか疎遠な仲になり、互いに無関心になったのだった。それで、結果的にそうなったのだ、という言い方をするほかにはないのである」(p56)という記述もあった。『墓標と道標』に左保の文章がないのは、そういう所に理由があるのかもしれない。また、左保は“次彦”の自死の理由について他に思い当たることを描写しているが、「敗北の微笑」はあくまで小説なので、本稿ではその理由は取り上げないことにした。

 

○横山茂(よこやま・しげる)

編集者

昭和3年(1928年)2月11日~昭和43年(1968年)4月22日

【出生地】山形県西置賜郡豊川村大字小白川(飯豊町)

【学歴】中央大学経済学部〔昭和28年〕卒

【経歴】父は教師で、5人きょうだい(3男2女)の2番目の長男。“横山は高くないのだから〈木あるをもって尊しとなす〉の言によって茂としよう”と“茂”と命名される。昭和20年3月長井中学を卒業、17歳で代用教員となる。23年退職して上京、24年大学進学のため東洋大学新制高校三年課程に編入。やがて中央大学に入学。24年アルバイトとして三省堂に入社、『新百科辞典』の語彙カード整理に従事、一年で退社。25年中大新聞のアルバイト体験記に「三助日記」が入選。26年臨時雇として三省堂に復帰、『新百科辞典』の校正を担当。28年正社員として三省堂編修所に採用され、34年出版部参考書課、39年単行本課へ異動。編集者として「三省堂新書」の創刊に当たり、むのたけじ『詞集たいまつ』、白鳥邦夫『ある海軍生徒の青春』、野添憲治『出稼ぎ』、星野安三郎『憲法に生きる』、真壁仁『人間茂吉』などを担当。43年1月労災による椎間板ヘルニアで入院したが、腫瘍が見つかり、4月40歳で早世した。45年「三省堂新書」と同じ装丁の追悼集『横山茂・生と死:ある編集者の肖像』が編まれた。

【参考】『横山茂・生と死:ある編集者の肖像』横山茂追悼文集編集委員会〔編〕/1970.4

 

○笹沢健(ささざわ・けん)

三省堂営業部 日本出版労働組合協議会教科書対策会議議長

昭和2年(1927年)9月21日~昭和35年(1960年)8月11日

【出生地】神奈川県横浜市港北区篠原町

【学歴】高知高校文科〔昭和23年〕卒

【経歴】父は詩人の笹沢美明。横浜二中、旧制高知高校を経て、昭和24年群馬県の高崎北中学に勤め、英語と社会科を担任。27年三省堂に入社。教科書出版部で教科書の編集に従事する傍ら、出版労働組合懇談会(出版労懇)及び、その改組組織である日本出版労働組合協議会(出版労協,現・日本出版労働組合連合会=出版労連)の教科書対策会議の重要メンバーとして活躍、のち同議長を務める。33年会社から突然営業部第二課に配転され、教科書売り込みの現場に異動させられる。35年8月葛飾区青戸の自宅で自殺した。没後、『墓標と道標:笹沢健追悼文集』が編まれた。小説家の笹沢左保は実弟で、笹沢家をモデルにした左保の自伝的小説『詩人の家』には次彦の名前で登場する。

【参考】『墓標と道標 : 笹沢健追悼文集』笹沢健追悼文集発行発起人〔編〕/1961.8、『詩人の家』笹沢左保〔著〕/文芸春秋/1979.6(のち文春文庫/1983.12)

 


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