皓星社(こうせいしゃ)図書出版とデータベース

第8回 私の恩人――日外アソシエーツ創業者・大高利夫

河原努(皓星社)

■いまから20年前……

地方の公立大学でぐーたら本を読んでいた私は、4年生になって「就職」という当たり前の一大事に直面して、とりあえず自己分析をしてみた。人にない自分だけの取り柄を考えると、それは「高校時代から趣味で人名事典を作ってきた経験」だけだった。その趣味から恒常的に人名事典を作っている出版社として日外アソシエーツの存在は知っており、あの会社なら私を採用してくれる可能性があるかも、と大学の就職室に行ってみると、なぜか日外からの求人票が来ていた(入社後に同窓の先輩が二人いる事を知った)。

当時すでに就職氷河期と呼ばれ、数年後に日外は正社員の募集を休止したが、この時はぎりぎり正社員募集だった。筆記試験(100人くらいいた)と面接が2回、奇跡的に「拾ってもらい」同期5人の中に潜り込むことができた。入社初日の部署回りの際「(その時)あなた、私の目を見て話さなかったのよ。コイツは駄目だと思ったわ」と、それから約20年間の在社中に一貫してお仕えした課長が何度かしみじみ語ったものだが、アルバイト経験すらないオタク社員であった。

日外ではボーナスを支給されるとき、所属部門のトップと二人きりの部屋で「はい、ご苦労様でした」と明細書の入った封筒を渡されるのが慣習で、私は編集部門に居たので編集局長の山下浩さん(現社長)から受け取ることが多かった。受け取ってもすぐに部屋を退出することはなく「最近、どう?」という話を振られて数分雑談するのだが、あるとき何の話からか「河原君は、面接の時に若い人(部長・課長クラス)はみんな×を付けたんだけど、大高(利夫)さんが採用したんだよ」と教えられた。大高さん(日外では役職者も含めて全員「さん」づけで呼ぶのが慣習)は日外の創業者で当時社長。まー、本当によく拾ってもらったものだと思っていたが、大高さんの鶴の一声だったとは! 以来、現在の私があるのは大高さんのおかげと感謝の念を持っている。

 

■大高さんとの思い出(をかき集めて)

そんな大高さんの下を離れ、縁あって2年前に皓星社に移った。そのしばらく前から大高さんは体調を崩して入院されており、退職の挨拶(と拾ってもらった御礼)をすることは出来なかった。直後にコロナ禍が始まり、同年10月頃に訃報を聞いた。8月の末にお亡くなりになったのだが、実はその2週間前のお盆の頃に大高さんの病室を訪ねて挨拶をする夢をみた。あれは虫の知らせだったのだろう。訃報を聞いた後に「こんなこともあるのか」とビックリした。

社長と平社員なので日々の接点はほぼ無いが、たまに雑居ビルの狭いエレベーターで一緒になると(当時データベース編集部は6階、社長室は7階だった)「最近どうだい?」と気さくに声をかけてくださった。会社では人物情報データベース製作に携われるのがうれしくて有休を取るという発想もなく、ただただ働いていたため、会社の創立記念行事でよく精勤功労賞(いわゆる皆勤賞。退職間際には廃止)をもらったが、その時に笑顔で「おめでとう」と言ってくださる顔が、私の思い浮かべる大高さんの顔だ。

あと、入社すぐの泊まり込みの赤城研修(二泊三日で新入社員が指定された条件で編集企画を立てて同行の取締役たちにプレゼンをした)で無理矢理カラオケを歌わされ、やむなく西田敏行「もしもピアノが弾けたなら」を歌うと「お前、顔に似合わずナイーブな声をしているな」と言われたこと、同じく研修の飲みの席で「好きな女優はいるか?」と訊かれ、ほとんど映画やドラマは観ていなかったので、窮して「磯野貴理子」と答えたら「そのキリコというのはいい女なのか?」と返されたことが印象深い。バラエティ番組の賑やかし枠の女性タレントが好きだったのよ……島崎和歌子でもよかった。

日外は「社員同士で飲みに行く」という文化がなく、社会人になったら“飲みニケーション”があるのではと恐れていた人見知りな私には有り難い会社であった。大高さんは取締役レベルの人たちとは飲んでいたようだが、酒席の誘いが下々まで降りてくることは無かった。ただ、あるとき「現場の声を拾おう」と思ったようで編集局の課ごとに大高さんと飲むことになり、まずはデータベース1課からと私の部署に白羽の矢が立ち、ご自身がオーナーであった近所の「しがらき」というしゃぶしゃぶの店で金目鯛のしゃぶしゃぶをごちそうになった(これは今でも「これまで食べた中でも特別に美味しかったもの」としてたまに思い出す。ごちそうさまでした!)。その席は結局大高さんの独壇場で「現場の声を聞く」という感じでは無くなり、次回は書籍編集部門の編集1課のはずだったが、どうも2回目は無かったようだ。

 

■日外アソシエーツの歴史を知るには

そうして昨年末、今も交流がある現役社員から「大高さんの追悼文集を作っている」と教えられ、出版関係者の“饅頭本”マニアとしては矢も楯もたまらず「なんとしてでも読みたい!」と言うと、しばらくして『日外アソシエーツ創業者 大高利夫追悼文集』(日外アソシエーツ、令和3年)を手渡してくれた。日外は社史に類するものがなく、それに近いのは元取締役の石井紀子さんへの聞き書きである松尾昇治・大井三代子編『石井紀子聞書 道を拓く―図書館員、編集者から教育の世界へ』(日外アソシエーツ、平成29年)くらい。

在職時代、データベース編集部の顧問として週に数度出勤されていた大高さんの妻・静子さんに「日外の歴史に興味があるのですが……」とお話しすると、大高さんのインタビュー記事などのコピーをくださったが、追悼文集にはそのうちの2編が収録されている。大高さんは自ら語るを潔しとしなかったのだが(かつて社史の企画書を出したら却下されたと仄聞した)、荒俣宏『データベース夜明け前』(ジャストシステム、平成4年)ほか、まだいくつかのインタビューがある。

 

■苦言を呈すると

「追悼文集」を手にして残念に思ったことは、まず装丁が貧弱なことである。「出版社の創業者なのにこの装丁なの?」と思った。頁数が少ないとはいえ、函入り布装とはいかないまでも、せめてハードカバーにして欲しかった……(社長が元取締役の)石井さんの『道を拓く』より下ではいかがかと思う。でも、過去に日外で作った、大高さんの盟友であった藤野幸雄(1931-2014、図書館情報学)の追悼文集もペラペラで貧弱だったから、それに合わせたのかもしれない。“饅頭本”もピンキリだが、何百もの出版人の“饅頭本”を手にしてきた身からすると、正直、上中下の下(※)。まあ、作ってくれただけでも有り難いが……。

加えて、退職者も含めて社員の追悼文が一つもないこと。出版人の饅頭本を社史代わりに使ってきた身からすると、装丁の貧弱さ以上に残念である。いろいろと書けないこともあるだろうが、せめて社長の側近であった高畑元専務、村田元常務、技術部門の喜多村元専務らの証言が欲しかった。特に喜多村さんについては石井さんも『道を拓く』で「喜多村さんには聞書を取りたいんですよ。そうすると日外の本当の姿というのは浮かび上がってくると思います」(p70)と書いており、いい機会だったとは思う(ご高齢なので難しかったのかもしれない)。

実は弊社創業者の藤巻修一も大高さんと交流のあった一人で、訃報に接した後に、何度か大高さんについての話をした。データベースについて深く知り視野が広がるに従って、大高さんの業績について敬意が増したという。「せっかくなので追悼文を書いてもらえませんか」とお願いして、出版業界紙『新文化』に寄稿してもらった(2021年5月27日号「日外アソシエーツの大高利夫さんを偲ぶ」)。この一文についても気がついていたなら「追悼文集」に収録して欲しかった。管見する限り、藤巻のもの以外は大高さんの追悼文を目にしていない。

 

※この項を書いた直後に訪れた古書展で大高さんとも交流があった雄松堂・新田満夫の饅頭本『書物を愛する心はひとつ―故新田満夫会長を偲んで』(故新田満夫会長記念文集刊行委員会、平成29年)を見つけたが、それは『大高利夫追悼文集』と同じ体裁だった。新田氏の名前を見て、“本の本”を対象として雄松堂が主催しているゲスナー賞に『出版文化人物事典』を応募させて欲しいと大高さんに談判した際「新田さんはなにかとオレを表彰しようとして困ってるんだ。だからダメだ」とすげなく却下されたことを思い出した。「いや、表彰されるのは監修者の稲岡勝先生で版元の社長じゃないでしょ!!」と口から出かかったが、黙って引き下がった。その後、先生は単著『明治出版史上の金港堂 : 社史のない出版社「史」の試み』(皓星社、平成31年)でゲスナー賞銀賞を受けられた。

 

 

■“饅頭本を社史代わりに使う”ということ

今回は特に意識して“饅頭本の原稿を頼まれたら”という風に書いてみた。2000年代初頭の約20年、人名データベース部門の一社員であった私の回想に見るべきものはあるのかと嗤う人、社内事情の“暴露”に顔をしかめる人がいるかも知れない。しかし、経営者だけで会社が回っている訳では無いし、平社員のどうしようも無く私的な回想の中にも「ボーナスのもらい方」「社内の敬称」「入社試験の最後の頃の規模と回数」「研修の有無・内容と場所」「2000年代以降の編集系における飲み文化」といった日外の社内文化について情報を拾うことができる。

「人生は些事からなる」とは敬愛するコラムニスト・山本夏彦の名言だが、社の歴史も些事からなる。丁寧に書いておけば、必ず後世の出版史家が何らかの価値を見いだしてくれる。“出版人の饅頭本を社史代わりに使う”とはそういうことだ。もちろんこれは出版社に限った話ではなく、一読者であるあなたの日々の事柄も歴史を構成していて、それらを記録しておくことは後世に意味を持つということである。

 

○大高利夫(おおたか・としお)

日外アソシエーツ創業者

昭和12年(1937年)3月8日~令和2年(2020年)8月28日

【出生地】東京都目黒区

【学歴】小山台高〔昭和30年〕卒→文部省図書館職員養成所〔昭和33年〕卒

【経歴】昭和33年岩見沢市立図書館、35年富士電機製造研究部特許課を経て、40年横浜で日外ドキュメンツ貿易を創業し特殊技術資料の輸入販売業務に携わる。44年日本初のコンピューターによる技術情報検索サービスに着手、46年会社を東京・大森に移転して日外アソシエーツに社名変更。コンピューターを用いた電算漢字処理によるデータ編集・索引作りにいち早く着手し、50年『日本統計索引』を刊行。同年紀伊國屋書店と書籍の総発売元契約を結び、同社を率いる松原治と関係を深めた。文部省図書館職員養成所の出身で、人物情報・新聞記事・雑誌記事・書籍情報・受賞情報など様々な情報を集積して、それらを容易に検索できるツール作りに注力。書籍や電子媒体(CD-ROM)などの形で書誌・索引・文献目録・事典などを出版する一方、オンライン情報サービスで雑誌記事「MagazinePlus」、国内書籍情報「BookPlus」、人物情報「WhoPlus」といったデータベースを提供、日外アソシエーツを図書館向けのレファレンスツール分野でトップ企業に育て上げた。また、61年日本電子出版協会の創設に参画、同協会で主導的な役割を果たした。

【参考】『日外アソシエーツ創業者 大高利夫追悼文集』日外アソシエーツ/2021.12

 


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