皓星社(こうせいしゃ)図書出版とデータベース

第六回 宝文館の編集者(1)――岡野英夫と花村奨

河原努(皓星社)

■トナカイ村

何年か前に東京古書会館での古書展で、簡素な同人雑誌を見つけた。20頁余のホチキス止めで、表紙には『児童文学の雑誌 トナカイ村』とあり、さらに中央部に縦書きで「岡野英夫追悼特集号」と書かれていた。耳にしたことが無い名前で児童文学作家かと思いつつ手に取ると(饅頭本の被伝者のほとんどは知らない名前なのでまず手に取って素性を確認することからスタートする)、幸い半ページながら年譜が付いていた。宝文館勤務の児童文学編集者だった。二百円で入手。周りには別の号は無く、たまたまこれ1冊が紛れていた感じだったと思う。

『トナカイ村』は詩人・児童文学作家の山本和夫が主宰した同人雑誌で、昭和30年に創刊、51年まで続いたようだ。国立国会図書館(NDL)にはマイクロフィルムになったものが10冊ある程度、その支部図書館である国際子ども図書館には半分以上があるが、私が買った5巻4号(通巻28号)は未所蔵だった(CiNiiを引くと日本近代文学館と東京大学教育学部の図書室がほとんど揃いで所蔵している)。国際子ども図書館に行く用事があったときについでに採録してこようと思いながら、今のところ「ざっさくプラス」には未登載です。

 

■追悼文集から出版関係者を拾う

買ってきた同誌に目を通すと約20人の追悼文が掲載されており、与田準一、いぬいとみこ、奈街三郎といった児童文学畑の名前が並ぶ。こういった追悼文集は家族・友人・師弟関係・仕事関係など、故人と縁のある様々な人々が寄稿するのが常で、この中から仕事関係(出版関係)の人名を探す。二人だけいた。一人は冒頭に「年譜に添えて」という一文を寄せた伊崎治三郎、のちの宝文館出版社長である。

 

昭和二十二年十一月、当時八重州口にあった宝文館が募集した編集見習社員に第一番に応募して岡野君は入社した。その時の募集方法は履歴書選衡によって面会を知らせるという方法だったのを、彼は社が開くと同時に履歴書を持って飛込んできたのである。違法であり抜けがけであったのだが、その時面接した私はこの熱心な少年を採用することを専務や当時の編集長花村奨氏に進言して彼の入社は決定した。この時の送られてきた履歴書は百七十通を越えたことを覚えている。

 

当時岡野は17歳、今の高校2年生くらいで少女雑誌『令女界』とその姉妹誌『若草』に配属される。追悼文のもう一人の寄稿者である花村奨は書く(以下「岡野君を惜しむ」から引用)。

 

雑誌の編集などは、だれにだって、やってやれないことはない。しかし、企画力と、文章力を兼ね備え、その上、レイアウトでも、校正でも、雑用でも、うまくできるという編集者には、めったにお目にかかれない。岡野君などは、まれなる一人に近かった。宝文館で、主として児童図書を担当した彼の仕事が、ピカリと光っているゆえんである。

(中略)めったに大口をたたかない岡野君が、いつであったか酔って、「花村さん、ぼく、いつかはかならず、りっぱな日本児童文学史を書きますよ」と、珍しく胸を張ったが、ぼくは単なる大口とは聞かなかった。彼なら、やれそうに思ったからである。

 

岡野青年は社内で恋愛結婚をして一児を授かったが、その児が1歳になる前に急病のため逝った。享年28。

 

■編集者としての花村奨

花村奨にも亡くなった翌年に出された『行路―花村奨文集』(朝日書林、平成5年)という1巻本選集があった(編者は『トナカイ村』を主宰した山本和夫だった!)。年譜を見ると、詩人として出発し、昭和14年土岐愛作の筆名で発表した小説「首途」で直木賞候補(同作は映画化もされた)。同年宝文館に入社、『令女界』『若草』を編集しながら小説を執筆。戦後、29年に退職後は文筆活動に専念。長谷川伸門下の集まり・新鷹会の事務局長を20年余にわたって務めた。

『行路』には「対談「少女雑誌編集」」という記事が収められており、編集者としての花村が余すところなく語られている(対談相手は詩人・俳人で出版社・富士経済グループ代表であった阿部英雄。この人も未知の出版人。書かねば)。戦前の少女雑誌編集や宝文館の実態、執筆してくれた純文学作家たち(太宰治・尾崎一雄・榊山潤・尾崎士郎・井伏鱒二ら)との思い出など読みどころの多い内容になっているが、花村は雑誌編集者だったようで手がけた書籍の話はなかった(岡野は短い人生に200冊を超える書籍を編集している)。この対談から『令女界』創刊編集長である藤村耕一の名前が拾えたが、この人物についてはまた次回。

 

■ところで宝文館とはどんな出版社か―社史のない出版社を調べるには

岡野と花村が勤めた宝文館は、明治34年7月大阪宝文館で修業した大葉久吉が同東京出張所を譲り受けて独立し、日本橋区本石町で創業。翌年『日本公民読本』『高等日本公民読本』で地歩を固め、以来中等学校の教科書発行を主たる業務とする一方、法律・経済・商業関係書を出版。のち少女雑誌『令女界』『若草』、日記帳『その日その日』『令女日記』も併せて出す。大正11年創刊の『令女界』はそれまで小学校低学年向けしかなかった少女雑誌の中で高学年からハイティーン層を狙って成功、「令女履」「令女髪」などの言葉を生み出すなど一時代を築いた。昭和2年6月室町4丁目の社屋で株式会社に改組。8年創業者の久吉が亡くなり二男の久治が社長に就任。戦時の企業整備も乗り切ったが社屋は焼失、業務も一部縮小を余儀なくされる。戦後は『ラジオ小劇場脚本選集』から放送文芸書に新しい分野を見いだし、27年には菊田一夫の大ヒットラジオドラマ『君の名は』の小説版がヒット。25年『令女界』休刊後は雑誌から撤退。36年倒産後、37年宝文館出版として再出発。現在は存在しないようで、NDLオンラインのOPACを同社で引くと最後の出版は平成15年になっている。

宝文館は社史が存在しない出版社だが、戦前に関しては創業者の饅頭本『大葉久吉君追悼録』(故大葉久吉君追悼録編纂会、昭和10年)がある他、戦後に関しては『著作権台帳』(日本著作権協議会、昭和26年~平成13年)及び『戦後20年 日本の出版界』(日本出版販売弘報課、昭和40年)に、自己紹介ならぬ自社紹介(ミニ社史)がある(協賛広告の一種と思われる)。この“ミニ社史”を横断的に調べるツールは、現在トム・リバーフィールド「出版社の「自社紹介」横断索引―ミニ社史を見つける」(『二級河川』21号、平成31年)しかない。戦時の企業整備をどうくぐり抜けたかも同「戦時の企業整備により誕生した出版社一覧(附・被統合出版社名索引)」(『二級河川』16号、平成28年)でわかった。実際に使ってみると、便利なツールを作ったものだ。しかし、出版社の終焉、つまり倒産・廃業を知るためのツールが無い。これは今後の課題である。

 

○岡野英夫(おかの・ひでお)

編集者

昭和5年(1930年)6月10日~昭和34年(1959年)4月9日

【出生地】東京市京橋区築地小田原町(東京都中央区)

【学歴】日本大学高等師範部〔昭和26年〕卒

【経歴】生家は築地魚市場の問屋。昭和18年京橋区月島第五国民学校を卒業して私立修徳学園商工部に入学。22年宝文館が見習編集員を募集した際に履歴書を持って直接会社へ一番に馳せ参じたことがきっかけで採用され、雑誌『令女界』『若草』の編集に従事。26年夜間通学していた日本大学高等師範部を卒業、高校・中学の社会及び国語の教員免許を取得。28年児童文学者協会に入会。30年児童文学同人誌『トナカイ村』同人となる。34年に28歳で急病のため亡くなるまで『現代児童文学辞典』をはじめ200冊を超える児童図書を編集した。同年『トナカイ村』28号で「岡野英夫追悼特集」が編まれた。

【参考】『トナカイ村』1959.9

 

○花村奨(はなむら・すすむ)

筆名=土岐愛作

編集者、小説家 宝文館取締役企画・編集局長

明治44年(1911年)8月12日~平成4年(1992年)10月31日

【出生地】岐阜県大垣市久瀬川町

【学歴】東濃中学校〔昭和4年〕卒、東洋大学東洋文学科〔昭和8年〕卒

【経歴】少年時代は『少年世界』『日本少年』『少年倶楽部』などの投書欄への投稿に熱中、昭和6年処女詩集『チヤブ屋の女』を出版。8年東洋大学東洋文学科を卒業、同年右文書院嘱託を経て、9年土岐市の下石小学校に奉職。一方、土岐愛作の筆名で小説を執筆、14年小説「首途」が『サンデー毎日』の第24回「大衆文芸」佳作第3席に入選し、同作で第9回直木賞候補。同作は島耕二監督の手により『美しき首途』として映画化された。同年宝文館に入社、若い女性向け雑誌『令女界』『若草』の編集に従事した。小説家としては長谷川伸や土師清二に師事。戦時中は一時教職に就いたが、のち宝文館に復帰して取締役企画・編集局長を務めた。29年同社を退社して文筆活動に専念、本名で子供向けの読物や歴史小説を書いた。38~60年『大衆文芸』編集長兼新鷹会事務局長。56年山本和夫らと詩誌『森』を創刊して編集を担当、平成4年に亡くなると同誌は終刊した(終刊号に花村の追悼特集あり)。5年山本の手により『行路―花村奨文集』が編まれた。

【参考】『行路―花村奨文集』花村奨〔著〕・山本和夫〔編〕/朝日書林/1993.10

 


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