皓星社(こうせいしゃ)図書出版とデータベース

第五回 短詩形文学を手がかりに情報を探す――中央公論社の岩渕鉄太郎と横山真一の場合

河原努(皓星社)

■得がたい支援者

事典の編纂は個人プレーではなく多くの知友の協力があってこそ、恩師・稲岡勝のご友人である坂本寛さん(元東京経済大学図書館)もお世話になっている御一人。古書展で会うと「お、どうだい」と温かく声をかけてくださり、続いて「最近こんなの見つけたんだ」と出版関係者の饅頭本や追悼特集の載った雑誌などを無償で譲ってくださるのである。恩師曰く「サカモトは昔からそういう奴なんだよ」。坂本さんは古書展常連の開場前行列組、私はそこまで病膏肓に入っておらず混む頃合いを外すためにお会いする機会はそう多くは無いのだが、そんな私も(貧書生故に)西部古書会館の大均一祭だけは朝イチにいくので、その場で最近の収穫を受け渡して頂くのが恒例となっている。いつもありがとうございます。

 

■古書目録から未知の編集者を拾う

そうして渡された中に平成30年11月の『趣味の古書展出品目録抄』があり、月の輪書林の箇所に付箋が立っていた。「中央公論社編集者★岩渕鉄太郎旧蔵品小特集!」の文字が躍り、説明のための略歴が付いている。「昭和22年1月、中央公論社に入社。婦人公論編集部、中央公論編集部次長、週刊公論編集長、小説中央公論編集長(昭和37年)、調査部長、『中央公論社80年史』編集。昭和45年、編集局付部長。11月退社。49年12月、創樹社美術出版入社。『小さな蕾』編集者」。全く未知の人だが、旧蔵書が古書目録に載るということは亡くなっていると考えるのが妥当。出品されているものを見ると、歌集や短歌を書き留めた手帳が出ている。この筋から洗うと没年月日がわかるかもしれない。

 

■生業とは違うルートからの調査アプローチ

弊社社長の晴山は社長業の傍らで短歌を詠むが、生業以外に短詩形文学に親しむ人は昔から多い。出版人(に限らないが)を調べるときに生業の方から調べても情報が出てこない人が、実は句集や歌集、詩集を出していてそちらの序文・あとがき・著者略歴から基礎情報(生没年月日・出身地・学歴など)や人物像が掴めることがよくある。例えば、先日亡くなった評論家の立花隆の伯父は、戦前に活躍した出版人で橘徳(橘篤郎)というが、戦後に橘棟九郎の号で『喜寿』という句集を出しており、その著者略歴から戦後の足取りがわかったことがあった。

国立国会図書館に所蔵されていた岩渕の歌集は2冊、第一歌集『草径』(かのう書房、平成4年)と第二歌集『花彩』(短歌新聞社、平成23年)。“本を出す”ということは大変なことなので無名な歌人の場合は第一歌集が遺歌集ということもままあり、また生前は第一歌集のみで、亡くなったことにより歌稿がまとめられて没後に第二歌集が出るパターンもある。『草径』と『花彩』の間には20年空いているが、『花彩』刊行時は岩渕は89歳で存命であった。2冊のあとがきから学生時分より窪田空穂・章一郎父子に師事して歌誌『まひる野』に属していたこと、『まひる野』及び中央公論社を通じて横山真一(三樹)という友人がいることがわかった。横山についても知らなかったので、併せて調べてみる。

 

■雑誌の“根性引き”で訃報を探す

横山の歌集は5冊。うち第一歌集『光の海へ』(大塔社、平成2年)は平成27年に現代短歌社「第1歌集文庫」に収録された際に略年譜が付き、どのような人生を送ったのかがわかった。第五歌集『九階の空』(ながらみ書房、平成29年10月)時点では93歳でご存命。2人とも単行本では訃報が掴めなかったので、所属誌『まひる野』を“根性引き”(※1)するしかない。『九階の空』刊行後の『まひる野』を順にめくっていくと、令和元年5月号に「急告」として「横山三樹運営委員が四月十八日に満九十五歳で逝去されました」とあった。運営委員とあるから追悼記事もあるかしらと、さらに進めると8月号に計4頁の追悼記事があった。これも参考にする。

今度は岩渕である。95歳没の横山の先輩であることから先に亡くなっている可能性が高く、平成30年に旧蔵書が売り立てられているので、そこから遡っていく。平成28年9月号に横山筆の「「まひる野」創刊同人 岩渕鉄太郎先輩を悼む」を発見。同年6月30日、95歳没。2人とも無事に発見できてよかった。そもそも掲載されているかわからない情報を目を皿のようにして探すのは「あれ、見落としていないよね?」という疑念との闘い、神経を使います。

※1 とにかく資料を全頁めくって、物量を力技でねじ伏せて必要な情報を探すこと。大抵の調査は効率的にできません!

 

■歌集『草径』について

友人の森洋介さんに一連の話をすると「むかしの人はなんであんなに益体もない短歌を詠んだのか、短歌はスナップ写真の代わりなんだよ。思い出を記録しておく手段として歌を詠むわけ」と指摘されて、なるほどと思う(※2)。『草径』の中には「回想の人々」の一章があり、編集者として過ごした日々を詠んでいる。「小沼丹氏の読売賞受賞作『懐中時計』の宴が「くろがね」にて行わる。参集者は井伏鱒二、安岡章太郎、庄野潤三、三浦哲郎、新庄嘉章、村上菊一郎、横田瑞穂、吉岡達夫、尾関栄(文芸春秋)、川島勝(講談社)の諸氏であった」との丁寧な詞書きのしたに「小沼丹を祝う宴に作家つどい笑いこぼれりそれぞれの酔い」「井伏師も小沼氏も顔あかければみなほがらなり無礼講の夜」、さらに「三浦哲郎氏の十八番」として「枯れすすき唄う三浦氏の嗄れ声みな酔いはてぬまなこつむりて」。……なるほど。

※2 森さんに発言について確認したら下記のメールが届いた。

 

森です。

和歌=記念写真、歌集=写真アルバムの類比説は小生の独創にあらず。

加藤秀俊が、何度か俳句の伝統を現代のカメラ・写真愛好に重ねてゐます。

https://books.google.co.jp/books?hl=ja&id=xMxDAQAAIAAJ&focus=searchwithinvolume&q=%E4%BF%B3%E5%8F%A5+%E5%86%99%E7%9C%9F

https://books.google.co.jp/books?hl=ja&id=5G5DAQAAIAAJ&focus=searchwithinvolume&q=%E4%BF%B3%E5%8F%A5+%E5%86%99%E7%9C%9F

特に看るべきは、前田愛・加藤秀俊の対談『明治メディア考』「4 道具と文筆の間で」(中公文庫、一九八三年、p.119以下。ほか諸版あり)。小見出しと巻末「索引」とに「カメラと俳句」あり。

日記を論じた後に前田愛曰く、「あとでその俳句を見れば旅先の情景なり体験なりを思い出すインデックスになる。いまの日本人は旅行に行くときにはかならずカメラをぶらさげていって、行く先々でパチパチ撮っていますね。あれは昔の俳句のかわりだろうと思うんです。俳句のかわりにスナップ写真で記録しておく。そういう伝統のつながりが、どうもあるのじゃないか。」

加藤秀俊の応じて曰く、「そうです。まさに写真というのは現代の俳句だと思いますよ。カメラは単純な光学器械にすぎませんが、うつした写真にはその人の主情がまじっている。[俳句誌とカメラ雑誌の類似など興味深いが略]」

山崎正和「日本人の心とかたち」にも「日本人のカメラ好きといへば、写真はわが伝統芸術の「俳句」に似てゐるといふ卓説があった。自然や身辺のささやかな断片を、瞬間の姿でとらへるところが」云々とあり(『山崎正和著作集5』)。

https://books.google.co.jp/books?hl=ja&id=zJE0AQAAIAAJ&dq=%22%E4%BF%B3%E5%8F%A5%22

ほか、富岡多恵子『「英会話」私情』(集英社文庫、一九八三年)等も同様の言あり。

で、これらの伝統から現代へといふ流れの向きを逆転させて、俳句を現代のカメラによるスナップショットで以て類比してもよいわけです。馴染みの薄いものを馴染み深いもので喩へるのが比喩の基本ですから。ただ、現在の見方を過去に遡及させるのは歴史学の忌避するアナクロニズムになりますけど。

しかし、これらは俳句に関する言であって、和歌ではありません。ちなみに、俳句を叩いた桑原武夫の第二藝術論も、本当は短歌を批判したかったが、王朝期より国語藝術の主流である和歌の流れに正面から喧嘩を売るのを避けて迂回戦術を取ったのだとか。では、この写真と俳句との類推も、俳句を短歌に入れ替へ可能か?

『明治メディア考』の続きに曰く――。

前田「和歌の世界とはちょっとちがうわけですね。俳句の即物性にくらべて、和歌のほうはたぶんに主情性が強いわけですから。」

加藤「俳句は一瞬の情景のスチール写真ですね。」「時間の流れを或るところで切断して、その瞬間のスチール写真を言葉であらわしたのが俳句だとすれば、まさしくそれはシャッターチャンスの問題です。」

但し、和歌・短歌には「ただごとうた(徒言歌)」と評される類あり。ありのまま詠じるばかりで詩情に乏しく退屈なものになりがちですが、その即物性ゆゑ却って俳句同様に記録・記憶・記念のインデックスたり得るわけです。短歌の方が感想を附け加へやすい点も記憶の足しになることでせう。

別に、自分が短詩型文学を好まぬ偏見から俳句も短歌も一緒くたにしたわけではありません――下手な和歌を一般に「腰折れ歌」と言ふのは、第三句までは勢ひがあっても第四句とうまく接続しない所を腰折れと形容するのだから、つまりありふれた拙劣な短歌は実質五・七・五までなので俳句と変りないことになるのです(と、いひわけ)。

 

短歌=写真の説、少々再考。

俳句はスナップ写真、短歌は記念写真寄りではないか。つまり、即興性と日常性が際立つ俳句に対し、和歌は半ば豫定や下準備が伴ひ、挨拶口上や儀礼に近かった(贈答し合ふところも)。カメラが小型化して携帯が容易になると写真館や写真師を離れてアマチュアの撮影が手軽になったのと同様に、近代短歌の写生運動の派生から、機会詠(題詠や自然詠に対する歌壇用語)が特別な慶弔・行事よりも日々の生活や時事に即するやうになり、何でもない私的な日常場面まで気軽に記念撮影されるみたいに詠まれることとなった。『サラダ記念日』然り。記念撮影のスナップショット化、短歌の俳句化とでも言ふか。手軽気軽な作歌は工夫を凝らさないので、歌風としては曲(ひねり)の無い「ただごとうた」になる。当意即妙な機知・即興の才を持つ人などどうせ少数だから、準備無しに詠めばおよそ凡作にならざるを得ないわけ。なに、直言歌(ただごとうた)こそありのままの真情の吐露だ、と? それをそのまま他人に見せて興趣あるものになる人間なぞ稀でせう。生(き)のままの自分で人に好かれようとは、づうづうしい。藝を要する所以。

 https://twitter.com/livresque2/status/1447792409941725191

 

■中央公論社の多士済々

岩渕・横山の調査を通じて本郷隆、柳田邦夫、宝田正道、尾島政雄ら、また未知の中央公論社の関係者氏名を拾えた。青地晨、雨宮庸蔵、小倉真美、栗本和夫、黒田秀俊、小森田一記、笹原金次郎、篠原敏之、杉森久英、高嶋雄三郎、高橋善郎、竹森清、津曲篤子、野中正孝、畑中繁雄、塙嘉彦、半沢成二、福山秀賢、藤田圭雄、牧野武夫、松下英麿、宮脇俊三、八重樫昊、八木岡英治、安原顕、柚登美枝、和田恒……『出版文化人物事典』の「出版社・団体名索引」を作った際、中央公論社の関係者が飛び抜けて多かった印象がある。改訂版でも出版社社員であるからとむやみやたらに収録するつもりはないが、本を出している人などは収録するべきであろう。なお本稿の最初のタイトル案は「中央公論社の多士済々」であった。

 

○岩渕鉄太郎(いわぶち・てつたろう)

編集者 中央公論社調査部長

大正10年(1921年)3月10日~平成28年(2016年)6月30日

【出生地】岩手県

【学歴】早稲田大学文学部〔昭和21年〕卒

【経歴】昭和13年一関中学、21年早稲田大学を卒業。22年1月中央公論社に入社、『婦人公論』連載のための谷崎潤一郎「細雪」の原稿筆写が最初の仕事だった。同年11月結核が再発して3年間の療養生活を余儀なくされ、25年治癒。35年4月『中央公論』、同年9月『婦人公論』、36年5月『週刊公論』、同年8月『小説中央公論』各編集部次長、37年1月『小説中央公論』編集部長代理次長、6月同編集部長。38年調査部長に転じ、『中央公論社の八十年』編集に従事。44年10月雑誌編集局長付(部長待遇)。同年11月退社して全日本ブッククラブ創業に参加。49年創樹社美術出版に入社、『小さな蕾』編集者。のち求龍堂を経て、フリー。一方、歌誌『まひる野』創刊以前から窪田空穂・章一郎父子に短歌を師事、同誌創刊同人で、平成4年第一歌集『草径』、23年第二歌集『花彩』を刊行した。

【参考】『花彩』岩渕鉄太郎〔著〕/短歌新聞社/2011.2、『趣味の古書展出品目録抄』2018.11、『まひる野』2016.9、『中央公論社の八十年』中央公論社/1965.10、『中央公論新社120年史』中央公論新社/2010.3

 

○横山真一(よこやま・しんいち)

筆名=横山三樹(よこやま・みき)

大塔社創業者 中央公論社開発室副室長

大正13年(1924年)5月22日~平成31年(2019年)4月18日

【出生地】東京府荏原郡駒沢村字下馬引沢(東京都世田谷区)

【学歴】早稲田大学文学部国文学科〔昭和23年〕卒

【経歴】昭和18年東京府立第八中学を卒業して第二早稲田高等学院に進み、19年徴兵検査で甲種合格。同年特別甲種幹部候補生に合格し、20年6月仙台陸軍予備士官学校を卒業。8月15日新宿駅ホームで終戦の詔勅を聞き、翌日陸軍少尉に任官。戦後、早大に復学。23年中央公論社に入社して『婦人公論』編集部に配属される。36年『別冊婦人公論』編集部長、37年『暮しの設計』創刊編集部長。44年前年の社内ストライキで自分の雑誌休刊の責任を取り編集長を辞任、雑誌局の中で書籍出版を許可され雑誌記事の書籍化に着手し、45年〈中公リビング〉シリーズ第1号である梅棹忠夫等著『家事整理学のすべて』がベストセラーになった。46年開発室副室長、53年定年を前に辞職。54~57年ハーレクインエンタープライズ日本支社に勤め、小説本の英文和訳校閲に従事。58年自分と妻だけの会社・大塔社を創業、財団法人高速道路調査会の機関誌『高速道路と自動車』の編集に携わる。社名は敬愛する日本画家・平山郁夫が鎌倉の大塔宮横に住んでいたことにちなむ。平成9年同社を解散。また、第二早稲田高等学院時代から作歌を始め、昭和21年歌誌『まひる野』創刊に参加して窪田空穂・章一郎父子に師事。53年師・章一郎の勧めもあり中断していた作歌を二十余年ぶりに再開して『まひる野』に復帰、平成2年第一歌集『光の海へ』を大塔社から刊行した。歌集5冊。宮城まり子との縁でねむの木福祉会理事や、日本エディタースクール講師も務めた。

【参考】『光の海へ』横山三樹〔著〕/現代短歌社/2015.6、『九階の空』横山三樹〔著〕/ながらみ書房/2017.10、『まひる野』2019.5

 


☆本連載は皓星社メールマガジンにて配信しております。

月一回配信予定でございます。ご登録はこちらよりお申し込みください。