皓星社(こうせいしゃ)図書出版とデータベース

第二回 児童文学雑誌『飛ぶ教室』から(1)実業之日本社の3人の児童文学編集者

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河原努(皓星社)

■「ざっさくプラス」の登載方針

私の仕事の一つに雑誌記事索引データベース「ざっさくプラス」に登載する雑誌の選定・準備がある。「お知らせ」の「昨年からの新規登載情報」、メールマガジン「先月からの新規登載情報」の“独自登載分”はその結果で、登載時系列順(の早い順)に並んでいる雑誌タイトルを分野別に再配列してみると、私がどのような分野を“優先的に登載していきたい”と考えているかが読み取れよう。「出版社PR誌」「企業PR誌」「ある分野で有名な雑誌」…それらと並んで今後力をいれたいと思っている採録分野の一つに「児童文学」があり、その第1弾として光村図書出版の『飛ぶ教室』(の第1期,昭和56年~平成7年)に白羽の矢を立て、先日登載したばかりである。平成17年の復刊以降分は第1号から国立国会図書館「雑誌記事索引」の採録対象となっているので、これで1期・2期を通じての検索が可能になった。

採録の意図としては、例えばマンガはかつて学術的な研究対象と見なされていなかったが、現在はマンガ学部や専門図書館(明治大学米沢嘉博記念図書館)ができるなど、今後研究の進展が期待されるからだ。これまでのマンガに対する言説は、(マンガ=よくないものとして)主に教育や児童文学の分野でなされてきた経緯があり、それらのマンガ関連文献を拾うことができるようにしたいという考え。『飛ぶ教室』創刊号にも「のらくろ」の作者・田河水泡へのインタビューがある。

加えて、現在使われている雑誌記事索引データベースは大宅壮一文庫の「Web OYA-bunko」を除くとそのほとんどが学会誌や大学紀要を中心とした学術雑誌を主たる採録対象としていることから、「ざっさくプラス」は当面、書店で売られていた学者の執筆や評論が多い一般誌を補完していこうとも考えている。「昨年からの新規登載情報」にあるものでは、歴史学で、中央公論社『歴史と人物』、三一書房→講談社→平凡社と版元が移った『歴史と文学』あたり。児童文学では、第2弾としてブックローン出版の『PeeBoo(ピーブー)』の登載を準備中だ。

 

■“篠遠喜X”さん

前置きが長くなったが、『飛ぶ教室』の目次を準備したついでに、出版史がらみの記事が無いか目を通すと4号連続で「子どもの本の出版」特集をしていることがわかった。1回目が福音館(36号)、2回目が岩波少年文庫(37号)、3回目が理論社(38号)で、39号が特集の“まとめ”。児童書の編集者の名前を拾えないかと思っていると、39号の今西祐行「実業之日本社と篠遠さん」という記事が目にとまる。むむむ! “篠遠(しのとお)”とはあまり聞かない名字だが、あの人の親族かも……。あの人とは、古巣時代、板倉聖宣先生の監修で『事典日本の科学者 : 科学技術を築いた5000人』(日外アソシエーツ,平成26年)を作った時に、『近代日本生物学者小伝』(平河出版社,昭和63年)という列伝を大変参考にしたのだが、その共同監修者として名を覚えた、遺伝学者の篠遠人。その長男は南洋考古学者で篠遠彦という。いわゆる“文化資本”に関係するのか、「名をなしている人の一家には他にも名をなしている人がいる」という法則(?)を古巣で体感していたので、この“篠遠”さんの名前に通字で“喜”の字が入るかしらんと思ったら、案の定、名前は“健”だった。家族関係の裏を取るためいろいろ検索してみた結果、「Googleブックス」で佐藤瑞彦『すばらしい人間教育 : 感受性をそだてる』(読売新聞社,昭和48年)で篠遠一家が取材されていることがわかり、それで喜健が喜人の三男であることが確定した。氏は昭和3年生とのことだが訃報が出て来ず、父・兄ともに90代まで生きたので、まだご存命であろう(と思われ、物故者を対象とした『出版文化人物事典』改訂版の掲載対象から外れるのであった)。

 

■今西祐行と岡本良雄

「実業之日本社と篠遠さん」は児童文学作家として大成した今西が実業之日本社の編集者時代を回想した文章で、早大・実業之日本社を通じて先輩にあたる児童文学作家の岡本良雄についても筆を割いている。少々長いが引用する。

 

私が実業之日本社に入ったのは昭和二十六年の二月のことだった(※)。二十二年に学校を出てからそれまでに、私は四つの出版社を転々とした流れ者だった。いずれの社も、担当していた雑誌が廃刊になったり、会社自体が倒産したあげく、やっと実業之日本社にたどりついたといった感じだった。

「今度“実業”に入れてもらうことになりました」

私の身の振り方を心配していてくださった坪田譲治先生や岡本良雄さんに報告に行った。「そりゃよかった。あそこは古い社だからつぶれませんよ。ハハハハ」坪田先生はおっしゃった。「よかったね。あそこだったら作品も書いていけるよ」とまじめな顔でおっしゃったのは岡本さんだった。

私は知っていた。岡本さんは戦前「少女の友」編集部に入られた。何日かは出社されたのだろうが、そのうちにご自分の仕事が忙しくて、だんだん出社されなくなった。それでもたまに出社すると、会計の人が月給をとっておいてくれて、「出社するなら月給日に来なさいよ」といって渡してくれたという。そういわれるとますます出社しにくくなる。とうとう全く行かなくなって一年近くたったとき、社長から直々に「シュッシャニオヨバズ」と電報が来て、あとからその日までの月給がちゃんととどけられたというのである。この話は岡本さんから直接聞いた。昭和十七年『朝顔作りの英作』という岡本さんの最初の童話集が出版されたころの話である。実業之日本社にはそういう大らかさがたしかにあった。

しかし、私が入社すると重役だった部長から、

「実業にはかつて三奇人というのがいてね、その一人が君の先輩の岡本君なんだ。岡本君の真似だけはしないでくれよ」と釘をさされてしまった(p87-88)

 

これなどは経歴に組み込みたくなる逸話である。ちなみに社長とは同社創業者の増田義一。

※『今西祐行研究』(偕成社,平成10年)年譜によると昭和27年入社

 

■実業之日本社と児童文学

実業之日本社と児童文学とは、この分野に疎い私には意外な組み合わせに思えたが、今西の文章によると、戦後に学年別の児童図書シリーズ、例えば児童文学者協会編の社会科の〈美しい心・正しい人〉や、理科の〈なぜだろう・なぜかしら〉などがヒットしたそう。

 

当時はどこの児童図書の出版社も苦しい時代だった。印税の支払いが悪かった。それにひきかえ実業之日本社は実に支払いが良かったので、どんな原稿でも依頼しやすかった(p89)

 

また、篠遠は同社の児童文学出版のキーパーソンだったようだ。

 

児童出版部ができて篠遠さんが部長になったのは私がやめてからだった。(中略)篠遠さんが創作児童文学を出版していたのは昭和三十八年から十数年のことだと思うが、あの時代戦後日本の児童文学の出版が量的にも質的にも最も盛んなときではなかったかと思う。日本の経済はその後もますます成長したというのに、創作児童文学は正比例してのびてはいないように思われる。少くとも実業之日本社は篠遠さんがやめるとプツンと創作ものを出版しなくなった。それは創作ものを手がける社がふえて、競争がはげしくなったからだろうか(p89)

 

■経歴を書く際に意識していること

岡本没後に講談社から出された『岡本良雄童話文学全集』(全3巻)の月報にも今西は文章を寄せ、早大童話会の先輩後輩であること、応召した後に鹿児島海軍航空隊でたまたま一緒になり驚いたことなどが書かれている。

これは余談だが、私は太平洋戦争中にその人がどのような立場でどこで何をしていたか、どこで敗戦を迎えたかがその後の人生行路で大きな影響を持ったと考えているので、そこを意識して経歴を記述している。同じく「何人兄弟の何番目」であるかも同様で、一人息子/子だくさんの長男・末っ子ではいろいろ違ってくるだろう。

よって、(私が本格的に項目執筆に加わるようになった)平成17年以降に刊行された日外アソシエーツの人名事典で、先頭に「7人きょうだい(四男三女)の4番目の二女」とあったり、太平洋戦争中の動向が比較的丁寧に書かれている人物の記述は、私の手が入っているといってよい(同社の書籍は欧文扉下に担当編集者の名前が入る)。人名事典の基礎となる人物データベース「WHO」は課員だれもが全データを修正でき、今後も記述が書き改められていくだろうが、私が上記2点を意識して経歴を書いていたのは事実である。

 

○今西祐行(いまにし・すけゆき)

児童文学作家 編集者

大正12年(1923年)10月28日~平成16年(2004年)10月17日

【出生地】大阪府中河内郡枚岡南村(現・東大阪市)

【学歴】早稲田大学文学部仏文科〔昭和22年〕卒

【経歴】6人きょうだいの末っ子として育つ。昭和16年上京して第二早稲田高等学院に入り、17年早大仏文科に進学。早大童話会に入会して童話の処女作「ハコちゃん」を書き、坪田譲治や岡本良雄の知遇を得た。18年大竹海兵団に入団、19年2月着任した鹿児島海軍航空隊で先輩の岡本良雄と一緒になる。20年8月被爆直後の広島に入り救護活動に従事、この経験は後年「あるハンノキの話」「ヒロシマのうた」「ゆみ子とつばめのおはか」などに結実。戦後復員して大学を卒業、22年国民図書刊行会に入社して雑誌『少国民世界』の編集をまかされる。25年昭和出版東京支店、羽田書店、26年西荻書店(同年末倒産)を経て、27年より実業之日本社に勤務し、児童書の編集に当たった。34年退職して文筆生活に専念。41年『肥後の石工』で日本児童文学者協会賞、国際アンデルセン賞国内賞などを受賞。児童文学作家として大成し、『今西祐行全集』(全15巻別巻1,偕成社)で芸術選奨文部大臣賞も受けた。

【参考】『今西祐行研究』三井喜美子〔編〕/偕成社/1998.5、「実業之日本社と篠遠さん」今西祐行(『飛ぶ教室』39号/1991.8.1)

 

○岡本良雄(おかもと・よしお)

児童文学作家 編集者

大正2年(1913年)6月10日~昭和38年(1963年)2月6日

【出生地】大阪府大阪市北区安治川上通り

【学歴】早稲田大学文学部国文学科〔昭和13年〕卒

【経歴】二男で、父は春沙と号して俳句をよくした。大正15年高津中学校に入学、同級生に織田作之助がいた。昭和6年上京して第一早稲田高等学院に入り、10年早大国文学科に進学。早大童話会では主宰者として重きをなし、機関誌『童苑』を創刊。また、坪田譲治や小川未明の知遇を得た。13年大学を卒業して帰郷、グリコ広告部に勤めたが、15年第1回日本新人童話賞受賞を機に再び上京。16年佐藤義美の紹介で日本出版文化協会に入り、児童課で児童図書関係の仕事に従事。17年同じく佐藤の手引きで実業之日本社に転じ、雑誌『少女の友』編集部に所属。しかし、同年最初の童話集『朝顔作りの英作』を出すなど創作に力を注ぐうちに出社日が減り、たまに出社すると会計が「出社するなら月給日に来なさいよ」と月給を渡すので、ますます足が遠のいた。全く行かなくなり約1年後、社長から直々に「シュッシャニオヨバズ」と電報が届き、後日その日までの月給が届けられたという。社内“三奇人”の一人。18年海軍二等兵として呉海兵団に入団。19年1月海軍予備学生として鹿児島海軍航空隊に入隊、同隊では今西祐行と一緒になる。その後、滋賀航空隊に移動、20年敗戦により海軍中尉に昇進。戦後は児童文学作家として精力的に活動したが、38年胃がんのため49歳で亡くなった。23年新世界社に入社して雑誌『少年少女の広場』編集同人となったが、しばらくして退社している。26年びわの実会初代会長。没後『岡本良雄童話文学全集』(全3巻,講談社)が編まれた。

【参考】『岡本良雄童話文学全集 3巻』岡本良雄〔著〕/講談社/1964.8、「実業之日本社と篠遠さん」今西祐行(『飛ぶ教室』39号/1991.8.1)

 

作家がデビュー前に隣接業界である出版界に身を置くことは昔は特に多い印象だが、そういう人をどこまで拾うか、またはどうやって網をかけるか、なかなか難しい。ところで、実業之日本社の三奇人、残り2人は誰だろう?

 


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