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友よ、私が死んだからとて 福島泰樹さん(歌人)

 

群馬の桐生市に生まれ、戦後まもなく17歳の命を断った詩人・長澤延子。彼女の清冽な詩は、死後友人らによって刊行された遺稿詩集『海』によって広まり、六〇年代という叛乱の時代を生きる若者たちの胸に深く刺さりました。

今年2022年は、長澤延子の生誕90周年という節目の年です。昨年刊行の『長澤延子全詩集』の編者・福島泰樹さんに、長澤延子という詩人の魅力についてご執筆いただきました。(編集部)

 


福島泰樹(歌人)

 

 敗戦後ほどなく、人民による人民の時代に、戦い、参入するという果たせぬ夢を抱いたまま、十七歳の命を絶った少女が、戦傷のいさおしとして書き遺した詩が、闘う学生たちに、言葉を与える時代が来たのだ。

星屑が音立てて
私の肩に降りかかる夜

私は冷たい予告の嵐にさいなまれ
裂傷の血を凍らせる

嘲笑う冷たいベッド
暗い木立

終焉をはらむ霧の身ぶるいを素肌に受けて
今宵 裸形の私は一人立つ           「星屑」

 長澤延子遺稿詩集『海』が、刊行されたのは一九六五(昭和四十)年十月。実父の依頼を受けた延子を知る友人新井淳一、高村瑛子らによって刊行された詩集は、新聞、文芸誌はもとより当時第一戦で活躍する詩人評論家たちに贈呈された。私が延子の名を聞いたのは、一九六五年冬のキャンパスにおいてであった。『海』刊行の余波は、早稲田のキャンパスにも及んでいた。翌六六年一月、早大学費学館闘争に突入。バリケード闘争は敗北に終わったが、翌六七年秋、羽田闘争を契機にゲバルトの時代を迎える。ベトナム反戦、大学の変革を求めて学園闘争は全国に波及、校舎の入口も窓もバリケードで塞がれた。ヘルメット、角材を手に武装した集団が街々を疾駆し、行く先々を機動隊のジュラルミンの楯が塞いだ。歩道の敷石は投石用に砕かれ、路上には火炎瓶が鈍い音を立てて炸裂していた。

星屑が音立てて
私の肩に降りかゝる夜

身じろぎもしない人影におびえる
赤いプロレタリアの旗に包まれて
それは遠く私の指から去つて行つた

鋭い一瞥に胸を射抜かれ
見送る瞳孔が地底に沈む           「星屑」

 シベリア寒波の風吹き荒ぶ夜のキャンパス。バリケードで封鎖した中庭から夜空を仰いだ記憶が、五十六年もの歳月の彼方から鮮烈に蘇ってくる。延子の詩「星屑」が、バリケードの夜の孤独を追懐させてくれるのだ。延子の詩が秘めた時代へのつよい想いと、その予見性を思う。

 一九六八年二月、芳賀書店の編集者であった矢牧一宏の手によって、詩とエッセーと手紙からなる、長澤延子アンソロジー『友よ 私が死んだからとて』が天声出版から刊行される。矢牧は、敗戦直後ベストセラーとなった一高生原口統三遺稿集『二十歳のエチュード』とも関わりのある男で、売れると踏んだのだろう。叛乱の時代の若者たちが求めるエッセンスを、手際よく編集、装訂の粟津潔が、そのセンスを遺憾なく発揮、表紙には延子直筆のペン字が、危機を煽った。「アカツキ/私は目を開く/お前 めくらでびっこの娘よ。」「アカツキ 私は とゝのえられた朝餉を捨てた。/とゝのえられた新調の背広に見向きもしない。/睡気と自堕落に囲まれて、/明け放れるガラス戸の素直さに腹を立てた。」

 墓標のように直立するタイトルの左脇には、「ーー死を選ぶ十七才・その反逆と傷心の絶唱」とある。本を開くといきなり「友へ Ⅰ」。友人に宛てた遺書である。

「……元気に生きて下さい。/格別、いま言うことはありません。死に行く人間の言葉はむなしいでしょう。/ーーが吐ける範囲のものは吐いたつもりです。」。「皆の不健康な分子のすべてを背負って別れの言葉にかえましょう。」に続く言葉は……。

敗北と離別の墓標を打ち込む者は私ひとりでたくさんです。

 そしてこう結ばれてゆくのだ。「今までの皆の友情を心から感謝しながら、ほがらかな五月の青空をいつものようにみつめてさよならです。/ごきげんようーーいつまでも。」と、「改行」、「一行空け」など原文を無視、かっこうよく目に飛び込んでくるように編纂されている。

 本書が刊行された一九六八年とは、どのような年であったか。一月、佐世保に米原子力空母「エンタープライズ」が入港した。核持ち込みを反対する反日共系全学連は、機動隊と激しく衝突。三月、ベトナムの負傷兵を対象とした東京王子米軍野戦病院反対闘争、東大では安田講堂が全共闘の学生によって占拠され、五月には日大全共闘が結成され、バリケード闘争の渦中にある明治、中央など神田の学生街はカルチェ・ラタンと化し、機動隊と衝突を繰り返した。一方、成田空港建設反対闘争は、激化をたどり全国から学生たちが結集、農民たちと連繋、激越な戦いを展開した。

このわかれに何と名をつけろと迫るのだ
私はドアを閉めて外へ出た
閉ざされた窓に風が吹きつける
雪よ あの家を埋めろ
私の墓標はこの涯ない草原に群をなす
裸体の人々の中にある
すでに家を捨てた者が
逞ましくこの草原を闘いの色に染めあげている           「墓標」

 「墓標」と題する詩の一節だ。死の年の一月に書かれている。この詩が書かれて十九年、長澤延子の詩が、闘う学生たちに読まれる時を迎えたのである。あの広大な北総三里塚、連帯の旗はためく成田の地にいかにこの詩が相応しいか。敗北を自明として闘う学生たちには、しかと言葉を持ったのである。「墓標」の詩は続く。

私は一本のわかい葦だ
傷つくかわりに闘いを知ったのだ
打ちのめされるかわりに打ちのめすことを知ったのだ
雪よ 闘いの最中にこの身に吹きつけようとも
もうすでにおそい
私は限りない闘いの中に
私の墓標をみた           「墓標」

 闘う学生たちが、いかに延子の詩をつよく受け止めていたかを示す証左がある。一九六九年一月、陥落後の東大安田講堂の壁には、このような決意が標されていた。

「君もまた覚えておけ/藁のようにではなく/ふるえながら死ぬのだ/一月はこんなにも寒いが/唯一の無関心で通過を企てるものを/俺が許しておくものか」

 長澤延子一九三二(昭和七)年二月、群馬県桐生市に生まれる。桐生は機業の街として名高い。群馬県下の都市にあって桐生市だけが空襲をまぬがれたのは、アメリカ軍の絹への憧憬がそうさたのか。すでに占領政策に組みこまれてのことであったのだろう。戦前からの文化を喪わなかったことが、長澤延子という知識人を生むこととなるのだ。

 四歳で生母を喪う。このことが延子の生涯を決定した。四四年(十二歳)、桐生高等女学校入学と同時に、今泉町の伯父の家にも養女としてもらわれてゆく。しかも伯父と父とは血縁関係はなかったという。父と伯父との間に余塵が口を挟むことが出来ない特別な秘密があったのだろうか。

 四五年、勤労動員先の工場で敗戦を聞く。敗戦の翌年年一月(十三歳)、この頃から詩を書き始める。「友よ 何故に死んだのだ/紫の折鶴は私の指の間から生れた/落葉に埋れた あなたの墓に/私は二ツの折鶴を捧げよう」

 「折鶴」は14歳の詩。延子の詩は、死に向かって歩行を開始したいま一人の私(友)、つまり自身への呼びかけから始まる。だが、もう一人の私は女学校にあって「新聞部」や「社会部」を創り、壁新聞「ホノホ」を編集。この間、文学、歴史、経済、哲学、政治、社会、心理、精神病理学の書を乱読。十五歳、生涯の友高村瑛子との文通が始まる。十六歳、自殺した一高生・原口統三の手記『二十歳のエチュード』に出会い影響を受ける。だが心の闘いを経て、「原口は純潔を求めて死に転身しました。私は生への純潔を求めて」「唯物論に転身します」と書くに至るのだ。

 一九四八(昭和二十三 十六歳)年五月、原口との戦傷の三月、四月を経て、詩作に火が付いた。死没までの十三ケ月、長編詩多数をふくむ一〇七篇もの詩作品を一気に書き記す。中にこの一節(「別離」)がある。

私の墓を
幾度び/゛\ぎる春秋の中で
人々の歩みと
やがては
忘られた勝鬨さえ聞くことが出来るだろう           「別離」

 そう、彼女は、参加しようとしているのだ。戦後の荒地を切り開き、歩んでゆくだろう人々の未来を、万感の思いをもって見守ろうとしているのだ。「忘れられた勝鬨」を聞くことが出来たとき、私は歴史にしかと参加しえたのである。複雑に織り込んだ時間と、そこに生起する感情の襞、それをわずかな行数でやってしまう韻律の妙。

友よ
その時こそ私の魂は歓喜ヨロコビに満ち
その時こそ私が死ぬ時なのだ
墓の中の魂は春にめざめ
再びの分かれを
その墓に告げる時なのだ

友よ その時こそ忘却の中で
大きな旗を
大空に向って打ちふってくれ
その逞ましい腕のつずく限り
私に向って打ちふってくれ           「別離」

 十二月、最後の望みを託して青共(日本青年共産同盟)に加盟、晴れやかにオルグ活動を続ける。それが養家の父母の知るところとなり、青共メンバーとの絶縁を誓わせられる。三月十五日、桐生高等女学校を卒業。卒業の前後から、それまでの詩稿を大学ノート(ノート「A」「B」)に整理。二十六日夜、服毒後最後の詩稿、二〇〇行にも及ぶ長編詩「寄港日誌」を画帳に書き続け、地上への別れとする。

 が、自殺に失敗。日を経ずして、再び詩を書き始める。

母よ
静かなくろい旗で遺骸を包み
涯ない海原の波うちぎわから流してくれまいか           「旅立ち」

 初めて生母への切ない思いを明かす。そして、「何から何までを吐き出してしまいたい衝動にかられ書くつもりではなかったこの手記を」書き始める。

さようなら
死人の言葉に耳傾けるいとまも持たぬ程に
うるわしく一人々々の生存のためにたゝかって下さい。

私は破船した
最後の通牒を眠りに沈んだマストにかゝげる。
さようなら
ひとたび去ってはもう二度ともどらないもの。
美しい生存の名において。           「手記A」

 十七歳の命を絶った延子の詩と評論は、六〇年代後半の闘う学生たちに迎えられ、以後改版を重ね累計十万部のベストセラーとなってゆくのである。

 私が、長澤延子に再会するのは、二〇〇八(平成二十)年五月、「江古田文学」68号(中村文照編集)特集「夭折の天才詩人 長澤延子」においてであった。その詩「折鶴」「別離」「乳房」「わだち」「星屑」などの詩篇に感銘した私は、毎月十日の吉祥寺「曼荼羅」での月例「短歌絶叫コンサート」を基点に、延子詩朗読行脚を開始。

 翌年、桐生市水道山記念館で、長澤延子没後六〇年、その友高村瑛子没後五年祭が、新井淳一の尽力で開催された。一高生原口統三の僚友で『友よ 私が死んだからとて』出版の仕掛人いいだももの挨拶がこころに沁みた。この日を境に、『長澤延子全詩集』刊行が私の夢となった。何人かの出版人にも話をもちかけてみた。世界的テキスタルプランナー新井淳一氏のアトリエにも何度かお邪魔した。

 二〇一五年四月、月例「短歌絶叫コンサート」の会場 、吉祥寺「曼荼羅」に吉報がもたらされた。皓星社藤巻修一氏が、『長澤延子全詩集』刊行を申し出てくれたのだ。爾来編纂に要すること六年の歳月を経て、遺稿詩集『海』全編の他、大学のノート三冊に書かれた詩稿一二九篇、大学ノート二冊にびっしり書かれた手記、長編詩「寄港日誌」、遺書、死後発見の小品など、あますところなく網羅。クリハラ冉の解題、福島泰樹解説。装訂・造本は間村俊一。純白の函に収められた八五〇頁の大著が、晴山生菜社主の手で開板をみることとなったのは延子六十七回目の命日、二〇二一年六月一日のことであった。函背には、「手記A」から

私の詩集は錯乱と敗北と戦傷の歴史だ、
ざわめくその墓標だ。

 の一節、が刻まれている。おりしも、本年二月十一日は、長澤延子生誕九十年を迎える。

 


福島泰樹(ふくしま・やすき)
1943年3月、東京下谷生。早大卒、69年、歌集『バリケード・一九六六年二月』でデビュー。「短歌絶叫コンサート」を創出、朗読ブームの火付け役を果たす。85年4月、「死者との共闘」を求めて東京吉祥寺「曼荼羅」で「月例」コンサートを開始。
同年6月、短歌絶叫コンサート「六月の雨/樺美智子、岸上大作よ!」を開催。ブルガリアを皮切りに世界の各地で公演。国内外1700ステージをこなす。単行歌集に『下谷風煙録』(皓星社)他33冊、全歌集に『福島泰樹全歌集』(河出書房新社)。評論集に『弔いーー死に臨むこころ』(筑摩書房)『寺山修司/死と生の履歴書』(彩流社)、『誰も語らなかった中原中也』(PHP新書)、『追憶の風景』(晶文社)。他にDVD『福島泰樹短歌絶叫コンサート総集編/遙かなる友へ』(クエスト)など著作多数。毎月10日、吉祥寺「曼荼羅」での月例「短歌絶叫コンサート」も37年を迎えた。


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