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 南天堂をめぐる新事実

  骨 紙 記

かろいんさんとアゴーニ
     −伊藤信吉・寺島珠雄の跡追−
     深沼火魯胤=アゴーニは同一人物の根拠

黒川 洋

 これも一つの偶然であった。伊藤信吉著『 監獄裏の詩人たち』新潮社96年を読んでいな ければ見落としていただろう。骨紙漁りのな かで、アナ系結社の『激風』という機関紙の 創刊号に深沼アゴーニの名を発見したことか ら始まる。

 『監獄裏の詩人たち』に深沼火魯 胤の名が出てくる。<長髪にフロックコート を日常の装いとして人目をひき、火魯胤(カ ロイン)さんとも呼ばれた。25年5月宮内大 臣一木喜徳郎、陸軍大将福田雅太郎等に脅迫 文発送容疑で検挙された時の新聞も「深沼火 魯胤(32)」>とある。1920から30年 にかけての厳しく激しい時空間は芸術、とり わけ絵画や現代詩においては疾風怒濤の時代 とよばれた。そんな時代のなかで同姓異名の 別人がそうはいないであろうということ、あ るいは兄弟であるか半信半疑の何気なさで同 時代の深沼の関連結社紙や機関紙、同人誌の 人物、結社の消息欄を以下、追記していく。

1.は機関紙等の消息欄の原文のままと資料 名*筆者注 ※筆者のコメント〕

1. 深沼火魯胤の名は23年2月『赤と黒』2号 の詩「無題」の作者として登場する。
   熱狂的社会主義沸騰の中に
   胃ぶくろの人間生活  人間皆を
   地べたに寝せてみろ  不浄食に生きる
   呪われたる絹の布團の驕慢者よ  俺たち
   『無産』に釘づけられた人間は
   土臺で鐡挺を手に持ち  血の流れるかぎり働く
   俺たちの盡きない精力で  ××××××××××誰だツ?
   おゝ×××××××××××× (一連)

*『赤と黒』2号(法政大学図書館所蔵復刻)
※同じ号に畠山清身が畑山清美名で詩「「ジ ヤムパンの呻き」を発表している。弟の畠山 清行は、戦前から大衆小説作家で著作に『日 本の埋蔵金』などがある。北海道出身。

2. 23年5月13日夜 前橋市役所楼上で開催さ れた、『赤と黒』文芸講演会に参加した伊藤 信吉が火魯胤を目撃している。『上毛新聞』 他に10篇余りの詩を発表している。同年6月 17日号『上毛新聞』に激烈な伏せ字の多い「 日本帝国の憤怒」を発表。同年6月24日号同 新聞文芸消息欄には<この夏中、横山通りに 夜店を出して、水曜会パンフレットや赤旗社 取次ぎのパンフレット(翻訳物)などを売る 筈の処、警視庁の主義者検挙の餘波でちょっ 齟齬して残念がってゐるそうだ」とあり、後 に伊藤文は元総社村石倉の町はずれの支那そ ば屋台で偶然に顔を合わせたとある。 *『風雷』百2号(土屋文明記念文学館所蔵) 伊藤信吉「深沼火魯胤・断片」記述。90年。

3. 76年5月1日刊『江西一三自伝』によると、 深川富川町に近い日比谷公園には震災後の東 京市が建てたバラツクが一面に並び、その一 角を自然児連盟の連中、山田作松、畠山清行、 椋本一雄(運雄)、前田淳一らの10余人が占 拠していた。機関紙『自然児』は25年に山田、 清行、木下茂らで3号迄出たといわれる。 *『自然児』は未確認。

※純正アナキズム派の結社であった。深川富 川町には難波大助も潜んでいた。木下茂は真 摯な農民運動家で『マヴオ』にも一篇だけ作 品を寄せている。南天堂仕込みの「げんこつ 踊り」が得意であったという。若くして別府 で病没したが、後の会津のグループ『冬の土』 の若者たちにその意思を残した。

4. 25年5月14日『上毛新聞』掲載記事。
*見出し/問題の男、宮相や福田大将 脅迫 文を送って治安維持法に引っ掛った 長髪の 深沼火魯胤 *記事/先月末、一木宮内大臣、 福田大将、憲兵隊、第二聯隊をはじめ全国の 軍隊や学校等へ辛らつな脅迫文や宣伝文書類 を密送してゐるものがあったので、警視庁特 高課では全力を傾注して犯人の検挙に努めて ゐたが、右、犯人は去月二十五、六日頃、前 橋市に来り、某知人の許に潜伏中前橋署の手 で挙げられ、翌日警視庁から出張の刑事に引 渡されたが、右は深沼火魯胤(三二)でかね て本市某新聞社及び某支局の記者として勤め たこともある。/在社中は常に長髪にフロツ クと云ふ變わった風を為し行人の注意を引い てゐたものであるが、元来過激な男だが、一 面頗るセンチメンタルな男である。(略)

〔火魯胤の眼鏡、調髪の大形写真が添えられ ている記事である〕
 十一日(註・実際は十二日)から実施され た治安維持法の第一の検挙者であるとも伝え られる。かつて、前橋の某新聞の文芸欄へ掲 載した彼の詩が当局の睨む所となって謝罪を 条件で起訴を猶予されたことや、高崎聨隊に 於ける過激思想宣伝で司法権の発動に逢った ことはまだ人の目に新しい事実であろう。

*『風雷』百3号(土屋文明記念文学館所蔵) 伊藤信吉「深沼火魯胤の来し方」記述。90年。

※一木宮内大臣、福田大将等への脅迫文送付 は、所謂、福田大将糞食らえ事件と呼ばれて いるもので、nの記事から、火魯胤は容疑事 実なしで東京で保釈されたと推測する。

5. 25年7月1日『労働運動』第4次11号 同社 自然児聨盟の椋本、臼井、深沼、山田(緑)、 の四君は警官をぶん擲って各八ヵ月の求刑。
※東京で保釈されたのちに遭遇した事件。

6. 25年11月1日『労働運動』第4次13号 同社 自然児聨盟 東京市外下落合中井一七九四へ 移転。猶、同連盟は自我人社、論戦社と提携 して、十月下旬、高崎及び桐生に於いて宣伝 演説会を開催した。

*伊藤文は深沼が新聞記者をしていたという 事実から、この演説会にかかわりがあるもの と推論している。

7. 25年12月15日『名古屋労働者』(同社12号) 池田寅三、古河三樹松両君は新聞でご承知の 如く、古田、和田君等の係検事や判事に脅迫 文を送った、といふので半年の刑罰だ(来年 5月3日出獄)中野刑務所にゐる。
*『名古屋労働者』は大原社研所蔵。

※古田は大次郎、ギロチン社事件で25年10月 15日秋田刑務所で刑死。和田は久太郎、福田 雅太郎大将狙撃未遂の人。著書『死の懺悔』。 28年2月20日秋田刑務所で自死。

古河三樹松は大逆事件連座で刑死した古河力 作の弟、池田寅三は三樹松の妹を妻にしてい る。三樹松は詩集『どん底で歌う』の根岸正 吉の妹を妻にしている。群馬版『どん底−』 復刻は三樹松の手でなされた。

8.  7.と同・自然児連盟同人の臼井源一、深 沼アゴ、椋本運雄、山田録郎と公務執行妨害 で豊多摩刑務所を無事出獄25年10月29日(懲 役3ヵ月)。
7.の記事における実刑判決後の出所となる。

※深沼アゴ名がここで出現するが、人脈系列 的に考慮しても火魯胤と同一人であることは 間違いはないと思われる。豊多摩刑務所刑務 所は現・中野刑務所のことである。

9. 26年4月1日『労働運動』第4次14号 同社 自然児聨盟は三月中旬解散した。

10. 26年4月5日『黒色青年』(同連盟)1号 1月31日黒色青年連盟発会式の演説会、弁士 中止の連続で<自然児の深沼君は、紙製のバ クダン(癇癪玉)を壇上にたたきつけて検束> とあり、発会式の流れ解散時に、銀座騒擾事 件が起きる。

*深沼は『現代史資料』続2「無政府主義」 の黒色青年連盟事件編では甲号特要で検束さ れており、31日18名、2月1〜2日15名、3 日24団体(黒手社・畠山清行、自然児連盟・ 臼井源一、詩人の緒方昇、農村運動社・望月 桂、労働運動社・近藤憲二ら)

※〔詩〕 ステツキ     小林 輝

    だいなまいとを齧つて
    失恋男は泣いたのだ――糞!!――
    おらが初めての上京のセツナ
    丸ビルの洋館は生意気な奴だと思つた
    
    ステツキを買いに銀座に出て
    このあたり芋畑にでもすべいと思つた

    黒旋風銀座のウインドを破つた時
    窓の穴から始めて明るい空を見た

    そしてその晩に買つたおらがステツキ
    は飛び切りのごつい奴であつた。

*雑誌『文芸ビルデング』(新聲社書店) 28年11月号掲載。銀座騒擾事件の当時者であ ったが検挙を逃れたものの作品である。 28年10月号の同誌の本誌執筆者身許個性調査 書欄の小林輝は「年齢/うら若し 風貌/大 胆にして性的魅力あり 妻/ないはずだったが… 子/3/10 戀人/歌舞伎女形ふーち ゃんと申す 住居/西巣鴨町三三〇 経歴/ 就職口によりて時々変更 特殊才能/女に引 つかけられること 趣味嗜好/活花、琴、親 不孝、ぶらぶら生活」とある。掲載写 真によ ると、現在のビジュアル系の女装スタイルで 街中を闊歩していようである。ちなみに同じ 号に局清(秋山清)はエレベーター欄に「エ レベーター・ボーイ」なる一文を発表してい る。同様に局清は「年齢/25歳 風貌/童顔、 愛嬌 妻/戀女房 子/二人 戀人/妻の項 を見るべし 住居/上目黒駒場六三八 経歴 /引きつづきエレベーター・ボーイ 特殊才 能/盆踊り 趣味嗜好/スポーツ一般、カレ ー・ライス」とある。

※『文芸ビルデング』は旧名『悪い仲間』の 改題である。『悪い仲間』は神戸時代の和田 信義が23年頃発行していた機関紙で、命名は 安成二郎である。上京後の和田と畠山清行に 辻潤を加え月刊誌として27年9月『悪い仲間』 創刊。28年10月『文芸ビルデング』(畠山の 兄・清身が発行人)となり荒川畔村の新聲社 から出版。アナキスト、社会主義者、ダダイ スト、ニヒリスト、マヴオイストなどの残党 を書き手に吸収。この時代唯一アナ系の商業 的戦略の雑誌であった。

11. 26年5月5日『黒色青年』(同連盟)2号 福田大将糞食らえ事件の古河三樹松君4月30 日、池田寅三君5月2日豊多摩刑務所を無事 出所。

12. 27年6月5日『黒色青年』(同連盟)9号 自然児連盟 野蛮人社他 熊谷順二 疋田治 作 松浦良一 秋山龍四郎懲役8ヵ月、山崎 眞道(少年法に拠る)懲役8ヵ月以上1年未 満 北浦馨、荒木秀雄罰金30円を科せられる。

13. 26年4月5日『黒色青年』12号(同発行所) 自然児連盟は都合上解体した。当分の間、残 務整理を東京府下上落合六二五前田淳一君方 にて取扱ふ。そして更にそこから新しき出発 をする筈。
※銀座騒擾事件で全員が入獄という事態にな ったため編集する人間がいなくなった。

14. 26年5月5日『黒色青年』13号(同発行所) 舊自然児連盟の前田淳一、椋本運雄、深沼火 魯胤三君、と『文芸批評』の麻生義君が一緒 になって黒化社をつくつた。機関紙『黒化』 を出す。同社は市外落合町上落合六二五。来 月早々より続々とパンフレツトを刊行する由。

*『黒化』『文芸批評』は現物未確認。 『風雷』百3号(土屋文明記念文学館所蔵) 伊藤信吉「深沼火魯胤の来し方」90年に『黒 化』の存在を示す資料、内務省作成の思想警 察資料『昭和二年中ニ於ケル社会運動ノ状況』 では設立は26年7月と記述してある。

15. 26年7月5日『黒色青年』15号(同発行所) 激風社と黒闘社は府下戸塚町上戸塚35に移転 し『激風』を創刊した。

*26年6月14日『激風』同社創刊号(大原社 研所蔵)リーフ4頁によると。署名人・臼井 源一。同人・上田光敬、前尾清三郎、臼井。 〔執筆者〕上田光敬、西人、後藤学三、前尾 清三郎、深沼アゴーニ、他は無署名であるが、 アゴーニの獄中記の全文を提示する。   

 「避難漫言」
■支配階級の番犬が數匹、持前の『シヨクケ ンランヨー』といふ毒素が腐敗醗酵を起こし たもんだから、急に狂ひだし、暴れまわり、 人民に危害を及ぼして物騒この上もないので 、椋本運雄、山田録郎、臼井源一の三君、そ れに『おれ』と四人で禍を防衛したら『公務 執行妨害、傷害』だと吠え立て、咬みついて 来た。おれたちは『職権濫用妨害だ』と言つ て聞かせたが、狂ひ出したら−もつとも年が ら年中正気を失つてはゐるが−止めドのない 番犬ども、キバをむいて呻きながらも、御都 合のいゝ『刑法』を武器と頼んで、執拗く追 ひ追ひ追ひところでまた、法律の條文に支配 されてる『ハンヂ・ケンヂ』といふ毒氣にア テられ、いわゆる法律の罹災者となつて、豊 多摩刑務所といふところに、避難すること三 ヵ月。●臼井君と、おれとは山田、椋本君よ りも一足さきに避難地に赴き、そこの建物の うちの、第一獨居部屋南部五十一室を、おれ の部屋とし、臼井君は同じ棟の三十七室をそ の部屋にした。ちやうど初夏の頃で、五十一 室へはヨロイ窓から緑の香ひの中に、セメン トと煉瓦のザラツポイ香ひ、鐡格子のカナク サイ、それに少しシメツポイ日には、ナンキ ン米のクソ色の香ひまでが、渦を作つて吹き 入つて来る。七月から八月の暑い盛りは、運 動場の雑草のムレた中に咲くアサガオが、ム ヅかゆい薫りを放ち運動してゐる鼻をウヅ突 く。そうこうしてゐるうちに、シワだらけの 皮かぶつたジヤガイモと豚肉の煮つけを、き のうの晝食つたのを思ひ出し、空腹が突然の ヨダレをすする。■フクロを貼つてゐると、 コツソリコツソリ、おれの部屋へ近よるもの がある。マサカここまで忍んで遇ひたいとや つて来る愛人は、おれはないはず、不思議に 耳をかしげてたら、例の如く看守のヌキ足サ シ足だ。鬼窓から覗いてゐやがるから『ヌス 人の夜忍ぶが如く鬼来る』と嫌味を言つて、 それからは鬼窓へフクロを貼りつけた。●水、 土の入浴日には、あとから避難して来る人達 の面壁姿に注意するト、二ヵ月目に、椋本、 山田両君が、ウスベニ色の着物に白モメンの オドケた覆面、歯ミガキ粉、竹揚子、番號札、 などを持つて面壁してゐるのを見つけた。『 ヨー』『ヤー』『オウ』三ヵ月の避難だが、 市ヶ谷に永くゐたから、豊タマ住は四十日と のこと。山田君はやつぱり南部の六十六室へ 陣取つたナ。四五日して椋本君が、七十九室 へ、臼井君が四十六室へ移轉す。毎日顔を合 はせちやニコリニコリ。話も時々やれる。お れが運動に出て、七十九室の裏を通る時、大 きなアクビのやうな、セキのやうな音響を腹 の底から渦巻いて出す。椋本君が窓から顔を 出して、マズチヨツト思つてることを語り交 す。山田君は首を出さぬ。『返事だけでは物 足りないや。』■夕飯時、點檢といふのがあ る。一二二六番『ホー』。一二五二番『オウ 』。八三八番『ハウエ』。八三九番『ウムー』 。建物をゆすぶり潰すやうな、爆發する やうな音響が四ケ所に起る。『同志は健在だ ナ』ニコニコニコ。(去年の十月・編者注)

※アゴーニは英語でより深い悲しみの意味を 持つという。東京の仲間からはアゴと呼ばれ ていることから、顎に特徴のあった人物とも 推測される。25年の初夏(編者注から逆算) 深沼は臼井源一、椋本運雄、山田録郎と公務 執行妨害・障害罪で検束され、臼井、深沼は 豊多摩刑務所に三ヵ月。2ヵ月後、市ヶ谷刑 務所から椋本運雄、山田録郎が移獄して来た とある。山田は自然児連盟員。後藤学三は解 放戦線社。臼井源一はヨタリスト発行。25年 の7月末〜10月末の在監(『名古屋労働者』 12号)。陸軍大将福田雅太郎等に脅迫文発送 容疑関連で、前橋の知人の家で検束され、東 京へ移送されたと伊藤文は記述されており、 所謂、福田大将糞食らえ事件では関与なしで 保釈された後のことになる。『激風』の創刊 が遅延したために深沼の原稿が臼井の手元に 眠っていたと思える。出所して直ぐに書かれ たことを考慮すれば、別名を使用したことは 確実である。この時代の厳しさを考慮して火 魯胤とアゴーニが別人であるという可能性は 低いと判断しての推論である。

16. 27年3月27日〜28年8月19日の間に『上毛 新聞』に詩、俳句、雑文を6篇程度発表して いる。

*『風雷』百3号(土屋文明記念文学館所蔵) 伊藤信吉「深沼火魯胤の来し方」90年。

17. 31年1月塩野荀三詩集『隧道』は当時、前 橋居留の草野心平と萩原恭次郎の序文がある。 伊藤文は恭次郎の序文の冒頭、回顧的記述を 引いて「僕は厳寒の一月、上越南線の沼田行 の汽車に乗った。それは突然数カ月前、姿を 没したままの友が、沼田にゐと云ふ報知に胸 躍らせてゆくのでした。塩野君も知つてゐた でせう。あのFに、(以下意識的に削除か)
 僕が泊めてもらつてゐた家の縁側の前には 雪が高く積まり、吹雪が戸に当たつてゐまし た。十一時頃、毛糸の襟巻をかぶつたFが雪 だらけになつて訪ねて来、又、その夜の中に 明日からまた放浪だと云つて帰りました。
 雪の中で二人は別れました。雪の上をポク ポク歩つてゆく彼の姿が見えなくなりました。 それきり逢わなかったFは、今三ヵ年をM刑 務所に居ます。その帰る日、君と僕は知りま した。五年も前になりますか。」である。
 Fを火魯胤ではないかとする推論に到る文 章は切々たるものがある。非合法の時代の風 雪を潜られた人の言葉である。

*『風雷』百2号(土屋文明記念文学館所蔵) 伊藤信吉「深沼火魯胤・断片」90年。

※『赤と黒』の編集発行人は東京在住時の萩 原恭次郎である。前橋時代からの親交を考え れば、深沼火魯胤の作品を『赤と黒』2号に 掲載したのは恭次郎でることは推測がつく。 又、「修道院志望など」(『文芸公論』橋爪 健編発行/27年9月号−私の二十歳ころ−特 集)の記述によると<非常な興味をもつて、 友人の新聞記者の家へ行つて通信記事や新聞 記事を手伝つた。農村運動を起こすのが、我 々の希望だつた。萩原朔太郎氏にもこの頃よ く逢ひした。その後同氏にすすめられて、文 学の研究会を開いたことがあつた。この時の 氏は誰が欠席をしても氏は欠席しなかつた。 黒化社の深沼火魯胤君もやはり同市(前橋) 新聞記者をしてゐたので、互いに親しくなり 始めた。>と恭次郎自身の記述がある。それ は赤十字社の雇に入り、六ヵ月で止めた時期 である。この事実からみても恭次郎と火魯胤 の関係は濃蜜な同志的繋がりと見てみていい。 <Fは、今三ヵ年半をM刑務所に居ます>は 詳しい事情を書けない何かがあったとする伊 藤文の指摘である。序文が書かれた30年9月 から逆算すると、深沼は27年初頭か、30年9 月から34年末の間の三ヵ年半を前橋刑務所に 居たことになる。

※塩野荀三(しおの・じゅんぞう)05(明38) 年4月−84(昭59)年6月8日 群馬県利根 群川場村生。群馬師範学校卒。川場尋常小学 校に訓導として赴任。24年6月雑誌『狼火』 創刊に参加。25年沼田に来た萩原恭次郎を初 めて訪ね親交を持つ。28年川場村に小学校教 師として赴任してきた小野忠孝らと詩泉社を 結成。同2月前橋居留の草野心平を沼田に案 内する。29年3月教員規程に抵触する行為が あったとして馘首。直後上京する。『詩文学』 『犀』『弾道』『黒色戦線』『農民』等に寄 稿。31年1月詩集『隧道』(序文・恭次郎、 草野/子供社)を刊。同時に子供社(東京・ 柏木)を興す。『詩神』に寄稿。33年『詩律』 (後改題『モラル』泉芳郎主宰)に小野らと 参加。この時期にリベラリスト宣言をする。 36年結婚。長女は作家の塩野七生である。東 京で小学校教員を定年まで勤めた。〔著作〕 本文中他 詩集『子供たちの唄』子供社36年 〔文献〕秋山清「詩集隧道評」『弾道』 号  年 伊藤信吉編『群馬文学全集u群馬の詩 人』群馬県立土屋文明記念館刊03年4月

深沼火魯胤  ふかぬま・ひろたね
94(明27) ?−未詳 筆名・深沼アゴーニ 愛称・カロ イン(群馬)アゴ(東京) 本名・弘胤 出 生、学歴は未詳。深沼火魯胤名は23年2月『 赤と黒』2号に詩「無題」の作者として出現。 同年及び翌年群馬県の『上毛新聞』発表の詩 10篇がある。すべて反逆的内容である。23年 6月前橋市内社会主義宣伝物配付所の設立を 図るが頓挫。この頃の深沼は『上毛新聞』記 者もしくは東京の新聞の前橋支局員だった。 長髪にフロックコートを日常の装いとして人 目をひき、火魯胤(カロイン)さんとも呼ば れた。25年5月宮内大臣一木喜徳郎、陸軍大 将福田雅太郎等に脅迫文発送容疑で検挙され た時の新聞も「深沼火魯胤(32)」としてお り、容疑事実無しで保釈となる。25年7月自 然児連盟の臼井源一、椋本運雄、山田録郎と 公務執行妨害と傷害罪で豊多摩刑務所(懲役 3ヵ月・10月29日出獄)に服役。26年1月の 黒連演説会を報じた機関紙『黒色青年』1号 (4月発行)に深沼弘胤として登場する。同 時期、自然児連盟解体後の前田淳一、椋本、 深沼に麻生義を加えて黒化社を結成26年6月 『激風』(同社・臼井編発・東京)創刊号に 上田光敬、後藤学三、藤尾清三郎らとアゴー ニ名で「避難漫言」、豊多摩刑務所入獄記を 発表。27〜28年には再び『上毛新聞』へ詩を 発表(弘胤名)する。この後、不敬罪で前橋 刑務所に服役と伝えられるが経緯及びその晩 年は未詳。

〔文献〕
『名古屋労働者』12号同社 25年12月25日 『黒色青年』1,2号 同発行所 26年4,5 月 『激風』1号同社26年6月14日 伊藤信吉「 深沼火魯胤・断片」「深沼火魯胤の来し方」 季刊『風雷』(前橋・風雷同人会)90年2,5 月 伊藤信吉『監獄裏の詩人たち』新潮社 96年 寺島珠雄『南天堂 松岡虎王麿の大正 ・昭和』皓星社 99年

※寺島珠雄が伊藤信吉資料と自ら調査した資 料で某人物事典へ掲載された遺稿に、黒川が 補足したものであるが、資料名の『風雷』が 『風雪』と誤植のあるものである。

 が、これを書き上げた後で、ひとつの齟齬 が生じてしまった。以下である。
 寺島珠雄著『南天堂』の記述に古田大次郎 の遺体引渡し時、自然児連盟の一員として深 沼火魯胤も立ち合ったのでは(『南天堂』3 06頁)と、あくまで推論と仮想で述べている。 古田は25年1O月15日秋田刑務所で朝食後刑は 執行され、その夕方には遺体を引渡されてい る。豊多摩刑務所を火魯胤が出獄となったの は25年1O月29日。これを確実なものとするな らば無理のあることである。この時期は自然 児連盟の主たる面々では病弱な前田淳一くら いしか在野にはいなかったはずである。
  そんなことは承知のうえでのことか、あるいは綿 密な資料使いの大おじさんこと寺島球雄の目 配りが届かないこともあり得る。日頃から畏 敬の念を抱いていた伊藤信吉大々おじさんの 資料をどうしても、使いたかったというのが 本音であろうと思われるからである。仮に、 私の推論が当たっていたとしても、寺島珠雄 『南天堂』はその価値を貶めるものではない ことは云わぬもながである。願わくば深沼火 魯胤の前橋刑務所不敬罪での入獄が明らかに なれば幸いであります。

 

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