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ハンセン病関係目録稿1920〜1959年 1960〜1982年 1983〜1994年 1995年以降
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編集発行人 能登恵美子
Email:noto@libro-koseisha.co.jp

2002年3月29日発行
ご意見などございましたらこちらへどうぞ。
*『ハンセン病文学全集』編集室ホームペイジを「みみずく通 信」と名づけ、冊子でも創刊しました。(2001・8・1)
『ハンセン病文学全集』編集会議・2 (2001・7・6)
 
出席者 編集委員=大岡信・加賀乙彦・鶴見俊輔      
 
編集協力=國本衛・冬敏之・山下道輔(五十音順

編集部 今先生方のお手元に、「ハンセン病文学全集 第1期編集打合せ案」をお配りさせていただいております。 『ハンセン病文学全集』は、必ずしも狭い意味の「文学」に限定せず、文学を「文字で書かれたもの」と考え全体で20巻、第1期(全10巻)、第2期(全10巻)と分けて編集することを考えております。第1期は狭義の文学作品で、かつ単行本化された作品に絞りました。調査によりますと、1920(大正9)年〜2000(平成12)年までに、その単行本数は約875冊となります。第1期に単行本を柱とした理由は、単行本だけでそれだけの分量 があること、単行本は作者の最終意思(決定稿)と推定できることです。そして第2期は、このあと全国の療養所を長期滞在取材をして、園の機関誌に収録された作品、埋もれた生原稿などの発掘、また聞き書きなど、在園者の方々のお話を伺ってくるつもりでおります。そして第2期は、文学作品に限らず、論文、記録、書簡、調査研究報告その他、文字で書かれたあらゆるものを対象に編集したいと考えます。 また、1期と2期の区分として、多くの単行本は自費出版によって刊行されておりますが、このような出版が可能になるのは、年金の支給年(1960・昭和35年)とプロミン治療の成果 が現れてくる時期と重なります。そこで、第1期を「プロミン以後」第2期を「プロミン以前」という区分も可能かと思います。(註1) 第1期の仕様は、全10巻、A5判上製、各巻平均550頁前後。 第1巻〜3巻「小説」、4巻「随筆・記録」、5巻「評論」、6巻〜7巻「現代詩」、8巻「短歌」、9巻「俳句」、10巻「児童作品集」となります。 さきほどもお話させていただきました、『ハンセン病文学全集』第2期にも関係してくることになるのですが、今回の1期に収録するため評論原稿を読みこんでみると、普遍性のある評論というものが思ったより少ないのです。そこで、もう少し大きな枠で、ハンセン病史というとらえ方では考えられないかと思ったりするのですが、例えば予防法闘争とか、死刑判決を受けた藤本松夫事件だとかです。これらは療養所を足で歩き、いろんな方にお会いすることによっていろいろ膨らんでゆく可能性を感じています。したがって2期の内容は作品編「プロミン以前」(園内の機関誌を中心に)と社会編 (ハンセン病史に関わる一切の記録)と考えております。 どうぞ先生がたのご意見をうかがわせていただけましたらと、思います。
加賀  編集の内容に少し立ち入りたいんですが。私は小説の編集を引き受けたので、これをどういう編集方針でやったらいいのか、ぜひ伺いたいのです。つまり、時代別 に分けていくべきなのか、あるいは作品への姿勢ですね、何かお考えがございますか。どういうふうな分類をしたらよろしいでしょうか。 編集部 そうですね。全体的に作品をながめてみて、区切りという点でお話させていただきますとプロミンという特効薬がでて、不治の病から完治する病になった、それは作品にも現れてきているように思います。
鶴見   それぞれのジャンルにそれぞれの基準があると思うんです。ですから10巻全部が同じ基準に従う必要はないと考えます。私は随筆と記録を読んだのだけれども、これはプロミンが入ってきたかどうかで非常に影響がありますね。しかし、ほかのジャンルはほかのジャンルで、作品を読み込むことで自然に基準が出てくるというふうに思いますね。お互いに、小説も随筆も同じ基準に従う必要はないと思います。
大岡  明石海人、津田治子という歌人がいらっしゃいましたけれど、その歌はすばらしい歌。また詩人では、ずっと前から塔和子さんを知っていて、彼女は十五冊以上詩集を出していますが、ハンセン病をテーマに詩ってないのですよ。「らい」という言葉は使われていない。明石海人でもほとんど使わない。すばらしい歌というのは、それを必死になって隠す。無視しようとするエネルギーとも関係があるようにさえ思えるほどで、作品の内実は重たく、複雑です。
鶴見  共通の基準にかかわるものだと思うのでお話しますが、私はまだ評論と伝記を全部読んでないんですが、私が接触した限りでは、評論というのはイデオロギーがかぶさりやすいんです。で、それは物すごく作品をまずしくするのです。イデオロギーをうまく合わせて、うま過ぎちゃうんです。だから、戦前ですと国体にかぶさって出てくるし、戦後ですとマルクス主義にかかってしまう。これが作品を非常にまずしくするんです。で、これを抜ける評論っていうのは非常に少ない。これで困るんですよ。むしろ、私は伝記の方がうまくすり抜けるんじゃないかと思うんですけどね。これはまだ十分集まってない。私は愛生園の評論の選やっていましたが、愛生園の森田竹次などは、共産党員であってもこれをうまく抜けている。小説でも短歌でも、別 のうま過ぎがあると思うんですね。結局、うま過ぎないっていうことが、偶然の力になるような気がするんですけどね。
冬   私が見る目と、それから編集部のように外の方から見る基準みたいなものとはちょっと、微妙な誤差があるなと感じます。文学作品としての質の問題っていうか、本当の文学として水準が高いけれどもハンセン病を直接のテーマにしていない、かたや、若干未熟あるいは感傷的であったとしても療養所の生活がよく書かれているもの。どちらをとるかという問題が、どうしても最後に残るような気がしますね。その辺はいかがでしょう。
加賀  さっき鶴見さんが言われたことと関係がありますが、たとえ未熟でも、ちょっと素人くさくても、表現力の強いものは、私は文学だと思うんですよ。それから、完成されて間然とするところのないものでも、余りにも、今度はつくり過ぎちゃってどうもっていうこともありますですから、結局、要はハンセン病の文学ですから、ハンセン病の現実から立ち上がってきた何か魔力のようなものが表現されていれば、たとえ未熟でも、文学として認めたいという気がいたします。
鶴見  三浦綾子の『氷点』って小説が出てきたときは、大変なことだったんですよ。あのとき選者は臼井吉見だった。その直後に話に来たの。三浦綾子は小説書くのに、丹羽文雄の『小説入門』を読んだだけで書いたのですって。本当にびっくりしました。大学の文学の教授などは、『氷点』を文学と認めなかったんですよ。つまり、何かかったるいのと、文章そのものが嫌なんですよね。テーマの選び方も嫌だ。だけどその後、『氷点』は大変な支持者を得て、彼女の全集もでている。ああいうものはああいうもので基準があるんですね。私は、もともと認める立場なんですよ、文学部の教授でもないし。(笑) 加賀  多分しばしばそういうことになりますよね。つまり、基準というのは割と高くとるものだから、よほどのものでない限り落ちてしまう。しかし、その落ちたものの中に非常に光るものがあることがある。そのためにずっと忘れ去られてしまったっていうことがあるんですね。それで、私はお願いしたいのは、現在、北条民雄の時代、つまり一九三〇年代の作品が非常に少ないわけです。もうちょっと教えていただければ、ぜひ読んでみますが。
   川端康成が作品をほめたという、内田静生という北条と同時代の作者がいますね。
編集部 内田静生さんは単行本を出されてないのですね。それで、第1期のリストの中には入ってきてはいませんが、第2期では登場していただく予定ではおりました。先ほどのプロミン以前、プロミン以後という話もありましたけど、小説の巻は内容的には、北条民雄の時代、その前後ぐらいからにしたいと思います。
   多磨全生園の方は、川端康成と北条民雄の影響があって、それ以後ね、一流の先生方が選者をしてるんですね。
大岡  大勢いますよね。鹿児島寿蔵とか大野林火だってそうです。鹿児島寿蔵さんはね。自分の歌集まで舌読用のものをつくっている。そういう人ですよ。 鶴見   それはすごいな。岡山では永瀬清子も関わっていますよね。永瀬清子も本気でやっていますよ。永瀬清子はプロの人から孤立してるんですよ。今はもう大変なものですが宮沢賢治は生前ほとんど認められていなかった。永瀬は、1933年「麺麭」の8月号に『春と修羅』読後感想を発表するなど、宮沢賢治を生前から高く評価した十人にも満たない詩人の一人ですよ。また、私はハンセン病の世界には大江満雄に引っ張り込まれたといってもいい。大江満雄が山室静も連れてきた。だから山室静もタッチしていますよ。大江満雄は本当に熱意を持っていましたね。大江さんがいなければ、私は今ここに座っていないですよ。
   日本ライ・ニューエイジ詩集『いのちの芽』(1953 三一書房)っていうの、大江満雄が選して出しましたよね、国本さんなんかその間の事情を御存じだと思う。
山下  国本さんは大江満雄の弟子だから(笑)。
国本  『いのちの芽』では、一生懸命協力したんですよ、編さん委員で。昭和27〜28年ころでしたか。
   あれはね、子供の作品まで入っているのです。私もひとつ詩を出しているんですよ。
鶴見  大江さんっていう人の基準がね。うますぎるものを選ばないのです。大江さんの選んだ『日本詩人全集』第10巻(1952 創元文庫)を見ると、あまりうま過ぎる詩は選んでいない。(註2)うまくないものを入れている。例えば物理学者の武谷三男の詩が入ってるんですよ。それで、武谷さん自身が私に言うのはね「こんなの詩かね」って。それは戦争中(昭和18年)に書いたもので「言葉」と言う詩。(註3)人間の理想 如何なる困難に面しても、 必ずそれを貫く道を見出すものです。 今現実は 私の心を悲しましていますが 人間の人間に対する愛が 人間のすぐれた理性を勇気づけて 必ずすばらしい道を 切り拓くでしょう。 ハンセン病の詩を選ぶときにもやっぱりその深いところでこういうふうに選ぶのが重要なんだ。 加賀  そうなんだな。(資料で配った、「『ハンセン病文学全集』単行本リスト」と「『ハンセン病文学全集』ジャンル別 収録作品候補リスト」の二つのリストをさしながら)このね、二つはどういうふうに違うんですか。
編集部 「『ハンセン病文学全集』単行本リスト」は、「『ハンセン病文学全集』ジャンル別 収録作品候補リスト」の前段階のものです。 それで、こちらの作品がいいというようなことがもしあった場合には、もう一度こちらに戻れるかなというような感じで。一応、刊行されたものにはひととおり目を通 したと思うのですが、まだ目配り足りないものがあります。
加賀  なるほど。そういう二段階なのね。非常に懐深く集めたということですね。これ全部、能登さん一人でやったの。
編集部 はい、鶴見先生と御相談しながらやりました。
鶴見  つまり、いい編集者を得たっていうことは確かなんです。(註4)
加賀  だってこれは普通大変ですよ、この作業。
鶴見  そう、いい編集者を得たっていうことは確か。 今、冬さんから出たような、内部の目から幾らかずれているってとこは、やはり尊重して考えていきましょう。
大岡・加賀 大変ですけれどもやりましょう。
編集部 ありがとうございました。

 

(註1)日本におけるプロミン
1941(昭和16)年、アメリカ国立ハンセン病療養所で、プロミン療法が発見される。
1946(昭和21)年、東京大学薬学部の石館守三郎教授によってプロミン合成に成功。多磨・全生園の5人の患者と東大病院皮膚科で治療に用いられる。高い効果 が認められる。
1947(昭和22)年、厚生省は各療養所に試薬を配布。臨床実験が進められ、いずれも特効性のあるものとして評価される。しかし、療養所幹部の中には、効果 に懐疑的な者や、隔離政策の崩壊を危惧する者もいた。
1948(昭和23)年、全国で24人が試用。著しい効果がある。半月後には傷が乾き、2カ月後には結節が変色し、無くなる患者も出た。10月28日、プロミン獲得促進委員会が発足。
1949(昭和24)年、厚生省が政府に6000万円のプロミン治療費を要求したが、結局予算案は、その6/1に削減されてしまう。2月24日、削減に反対して一人の男が断食を始めたことをきっかけに、断食に集まる患者らが400人になる。3月、要求は受け入れられ、予算は5000万円になる。(薬価が引き下げられたため実質は6000万円)
1950(昭和25)年、全国国立癩療養所患者協議会(全患協、のちの全国国立ハンセン病療養所協議会)が発足する。本部は全生園、全国7支部。 「隔離病棟のカルテ・隔離と解放の道のり」のホームページより

(註2)『日本詩人全集』第10巻の解説に大江はこう書いている。 (略)この全集は全編者が熱心に人選その他につき意見を交して成立したものだが、各巻の編纂責任者の個性が出ることは当然だ。私は、新居(格)、湯川(秀樹)、武谷(三男)、阿部(襄)というような批評家や原子学者、生物学者の詩をこの巻にいれている。この巻に収めた新居格氏の詩は永眠直前書いたといってよい詩だ。新居氏は銀座を足を重くるしくゆっくり歩きながら「僕はこれでも詩人なのだよ。詩を書きたいな」といったので、私は書くことをすすめた。阿部襄氏の詩は専門の立場からの観察の美があると思う。武谷氏の三段階論は素粒子グループの研究に大きな作用をしてきたということを特に言いたい。(略)

(註3)これは実は、 1946年に初版が出た名著『弁証法の諸問題』(理学社)の巻頭に掲げられたもの。しかしこちらにあたると若干の異同と、別 な事実がわかる。『弁証法の諸問題』のほうは、タイトル「言葉」の後に(太平洋戦の渦中にて)と添えられ、最後に(昭和18年3月真壁町久保氏主宰の展覧会のために)とあり、執筆の時期が知れる。また、第一行は『全集』が「人間の理想」となっているのに対し『諸問題』は「人間の理性わ(ママ)」となっている。

(註4)少し面映いのですが、ほめられた経験はめったにないので記念として。

みみずくニュース 

 

2,000枚にもわたる原稿  
三好先生から連絡をいただき、田中文雄氏の2,000枚にもわたる原稿を受け取りました。 「愛生」の原稿用紙のます目いっぱいに、万年筆で達筆に書き込まれた原稿。 括っても括ってもまだまだ原稿用紙。2,000枚のボリュームにのけぞりました。 読むほどに、これをお書きになられた、田中さんの熱情、使命感、正義感に圧倒されます。 内容としては、『すばらしき復活』田中一良著(1977・すばる書房)と重複しますが、今回の原稿はご本人が書かれているので新事実もあります。編集部としましても、あまりに大部であることと、未完なので今後どう編集をしてゆこうかと考えておりますが、30年という時間を超えて(ご本人が亡くなっていますので)大変貴重な原稿をお送り下さったことを感謝しております。

田中文雄(鈴木重雄)氏について。 三好邦雄

長島愛生園に、夏期休暇で医学生達が実習に出かけて行ったのは、今から約40年ほど前のことでした。 当時の厚生省が主だった国立療養所を医学生の実習に解放したのでした。 田中文雄(社会復帰後は本名にかえり[鈴木重雄])氏は、その時に迎えてくださった患者さん達の中心的人物でした。 田中さんは、東京商科大学(現一橋大学)在学中に発病し、入所したのは昭和10年代だったそうです。 私が初めてお会いしたときは、田中さんは40歳代でした。たしか気仙沼あるいはその近くの出身でした。 大した人物で、行動力に富み、正義感が強く、頭脳明晰な方で、我々医学生と昼夜行動をともにして、語り合いました。 私は田中さんが書かずに、他に日本のハンセン病患者を取り巻く世界を、記録として残せる人はいないと思いました。 人間が人間として扱われなくなる、実存体験と深い思索の記録は、田中さんのような人でないと書けないと考えました。 私はただの学生で、何もできる力はありませんでした。私の説得に応じた田中さんは、若者と同じ情熱とエネルギーを持って筆をとりはじめました。 その後自宅へ田中さんから原稿が送られてきました。それはなんと原稿用紙2,000枚にもわたる自叙伝でした。 私は一人読んで興奮し、このような人類稀な記録を形にするきっかけを作ったと自分自身に小さな価値を覚えました。 その後、田中さんはすさまじい執念で社会復帰をしました。社会復帰後は、大学のクラス会へ参加したり、亡くなったものだと思っていた旧友達と手を握り合って再会を喜んだり、国際ライ学会で英語でスピーチをしたり、同級生の取り計らいで、ダイキン工業の顧問役となり、ついに郷里の町長選にまで、立候補(編集部註1)し活躍しました。 田中さんの最期の仕事は、厚生省からお金を引き出して、気仙沼に国民宿舎を作ったことです。 たしか完成の日だったと記憶していますが、田中さんを飛び降り自殺をしてしまいました。 奥さんは残されたのだと思います。 原稿は未完でした。私は医師となり、30年たちます。 折にふれこの原稿を持ち、いくつかの出版社を回りました。しかしダメでした。 本になるには、売れる見込みがなければなりません。きっと採算が見込めなかったのだと思います。 そんな時、朝日新聞(2001・9・20・夕刊)に、『ハンセン病文学全集』の記事を見ました。さっそく、新聞社に皓星社の連絡先を聞き電話を入れました。 「鶴見俊輔先生から、田中文雄さんのお話は伺ったことがあります。田中さんの生原稿があったのですか。」と担当の能登さんの言葉でした。 よく「気持ちがすっと軽くなる」というようなことを聞きますが、私はこの瞬間、本当に肩ではなく全身が軽くなるものであるということを知りました。 そしてさっそく「ハンセン病文学全集編集室」に、2,000枚もの田中氏の生原稿を送りました。 私は、当時のハンセン病の療養所を思うときに、次のような出来事を思い出します。 愛生園に隣接する光明園での出来事でした。 形成手術のために来ていた非常勤の医師のことです。たまたま雨の中長靴で病室に入ってきた全盲の患者さんをつかまえ、医師は老人の顔すれすれに手に持った傘の先端を動かして、手術のやり方を私達医学生に示したのでした。 もちろん、こんな態度の医者は例外的な存在でした。 しかし私は、胸の中を傘の先でかき回される思いでした。 田中さんがもしこの場に居合わせてら、掴みかからんばかりに激怒したに違いありません。 園の職員は、田中さんを煙たがったようです。職員をなだめるために、一時田中さんは退所処分になったことがあったと聞きました。 社会復帰をして、積極的に活動して、国民宿舎が出来あがったときに、田中さんを底無しの空虚さに襲われたのではないかと思うのですが、それも傍観者で健常者の私の勝手な思いです。 失われた人間存在と失われた長い歳月は、当事者であるハンセン病患者さん達にしかわからないものです。 彼の原稿を読む人の感動は、彼にとって遠い世界の出来事に違いありません。 それでも原稿は読まれて欲しいと私はひたすら思います。

 

(編集部註1)敗戦により、ハンセン病療養所入園者は選挙権を獲得したのだが、被選挙権は実に「ライ予防法」の廃止まで入園者にはなかった。このことは、うかつにも栗生楽泉園の谺雄二さんが草津町の町議補欠選挙に立候補して、その応援に行くまでは私は知らなかった。谺さんは、予防法廃止後、先の総選挙のとき社民党から立候補した森元美代冶さんについで、二人目の立候補者だ。しかし、それではハンセン病患者・元患者の立候補者は戦後二人しかいないかというと、その前にもう一人いることを忘れてはならない。それが鈴木重雄さんだ。すでに1973年宮城県唐桑町の町長選に立候補している。鈴木さんは、退所、就職、戸籍の回復など想像もつかないような闘いの末、郷里の町長選に出馬したのである。しかし、ハンセン病元患者の闘いは、いまだ当選者は出していない。

 

 

編集部より

訃報
2月26日、作家冬敏之氏が亡くなられました。「みみずく1号」「みみずく2号」(本紙)の「『ハンセン病文学全集』「第1回編集会議」」でも活発なご意見をいただいております。 本全集を立ち上げたときにも、いろいろご相談にものっていただきました。 謹んでご冥福をお祈り申し上げます。 冬さん。冬さんのご遺志に、添えるような全集を一所懸命作ります。見ていてくださいね。

お詫び
「みみずく1号」を刊行してから、はや8ヶ月も経ってしまいました。 当初毎月刊行を目指していたのですから、なんともいい訳のしようもありません。読者の方から「いつ2号が出るのですか。」という問い合わせをいただいたりし、このような小紙でも楽しみにしてくださる方がいるということを改めて思い、反省しております。また皆様にお伝えしたい『ハンセン病文学全集』関係のニュースもあります。「みみずく通 信2号」を機に、定期的に刊行してゆくつもりですので、ご期待下さい。

予告
2月22日〜23日と編集委員の加賀先生と、草津の栗生楽泉園へとご一緒させていただきました。 今回の旅の目的は、加賀先生は『ハンセン病文学全集』1〜3巻「小説」の解説をお書きになるために、自然条件の厳しい頃に療養所を訪ねてみたいというお気持ちがあったためです。雪深い草津を考えていましたが、当日は天候にも恵まれ(温かすぎました)、園内を隈なく探訪しました。(それにしても加賀先生は健脚です。ついてゆくのがやっとでした。)しかしこのように温かい日でも、「重監房跡」は雪が膝くらいまであり、また入口にある盲導鈴も聞こえてこないほど静まり返っていました。加賀先生は「これでは叫んでも外に聞こえないし、この雪では食事を運ぶのも大変だったろう。」とおっしゃっておられました。23日午後からは、福祉会館で、先生は講演をなさり、在園者の方々と懇談をなされました。その模様は次回「みみずく3号」でご紹介したいと思っております。 4月2日に、「第2回編集会議」を編集委員の先生方と行う予定にしております。それも追ってご紹介するつもりでおります。


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