患者と他者双方の恐怖の世界    鎌田 慧

 人間の悲しさは、他人の苦しみや痛みを、感じることができないことにある。
 それは想像するとか、似たような体験を通して、自分のほうにひきつけて感じ取るしかない。そうはいっても、無知だったり、偏見に縛られたりしていれば、ことさら感じるこころをもちえない。かなりあとになって、自分の無知さ加減を知らされて、恥ずかしい思いをするのが、すくなくない。
 いまでも、日本人にことさら差別意識がつよいのは、同和問題とハンセン病である。部落差別 については、学校などでの教育の機会があるので、差別が犯罪的だとの認識はひろがっている。が、ハンセン病については、少数(使節の入所者が約四千四百人)であるだけに、当事者たちは、まだまだ差別 に苦しんでいる。
 松居りゅうじ『レプラなる母』(皓星社)は、かつては、「らい病」と呼ばれ、不治の業病とされていたハンセン病を、自分のものとして苦しんだ記録集である。
 というのも、叔父と従姉妹がハンセン病患者だったため、著者自身、少年のときに右腕に斑点ができたのを発見して、自分もついに発病した、と思いこんでしまう。
 病気ではないのに、病人とおなじ絶望的な体験を通して、患者を強制的に隔離し、断種、中絶させた国の政策に苦しむことになる。その異常な体験によって、ハンセン病にたいする本人と他者、その双方の恐怖の世界を、散文詩の形式をつかって、痛切に描きだしている。
 「崩れる前に死のう 人目につき始める前に−」(死のなかの記憶)
 表題作の「レプラなる母」は、「らい病」患者を産んだ祖母とその子どもたちの血みどろの、ほぼ百年にわたる歴史を描いた作品である。
 「昔から一人のらい病患者の周囲には十五人の不幸が起こると言われてきました。  発病すると、妻も子も、親類までもが、社会のひとからつまはじきされ、つきあいを拒否されてしまうというのでした」
 行き倒れ、偽名のまま施設での死亡、離婚、消息不明などの一族の悲惨は、一九〇七(明治四十)年、らい者と乞食が外国人の目に触れるのは国辱、として刑務所同様の強制隔離策をとったことによる。
 が、実際は伝染性などごく微弱なものでしかなかった。戦後は「プロミン」によって完治できるのがわかっていながら、「らい予防法」が廃止になったのは、たかだか五年前のことだった。  悲惨な家族を抱きかかえるような祖国ではなかった、その国の栄光とはなにか、との思いが、祖母の苦悩を形象化して「レプラなる母」の題名になった。レプラはハンセン病のラテン語である。
 「父を隠せ」というハンセン病の父親のいいつけに背いて、『「癩者」の息子として』を書いたのは、林力さんである。次作の『父からの手紙』(草風館)は、ハンセン病にたいする差別 意識を、自己克服するための必読の書といっていい。