椿實の遺したもの
椿紅子

 平成十四年三月二十八日午前零時十五分、父没。丁度一週間ICUに入ったが意識を取り戻すことは無かった。その間に後始末をどうするか、漠然と考えた。
 死亡記事が全国新聞三紙の都内版と東京新聞に掲載、というのが偶然だが程が良かった。氏名・生年月日だけのデータから各々「作家で○○」という表現になった。○○に入るのは教育者や宗教学者、神話研究家というのもあった。この形で遠い親戚 や旧友など本人と面識のある人々には割合に良く伝わり、後の対応の基本となった。
 遺したものに自分達を真っ先にあげるのは図々しいが、まず色の名称に子の付く名前の三人の娘である。原型は全集にも収められた小説「苺」などに認められ、主人公の妻は桃子である。珍しく起承転結のある作品で、私は出生前の赤子として辛うじて登場するが名前はまだ無い。別 の小説には藍子も居る。
 秋の陽光と共に埃と向かいの宗教法人からの音が入る納戸で蔵書整理をした。ウィーン楽友協会でブラームスの旧蔵書を使って研究したので、私の出来ることはこれだろう、と心に決める。書架にはあらゆるものを詰め込み、押し込んである。本については戦争中の学生時代なのに苦労しなかったのだな、と納得するくらいの潤沢さ。図書館を利用しない人だったが学生時代も同じだったろう。ハードカバーだけだが粗くインベントリーを取り、資料価値のある約千冊は駒場の日本近代文学館に寄贈することとした。
 寝室にしていた部屋の入り口近くと、納戸の奥、別の書斎の三箇所に分れて昭和二十年から二十五年頃の雑誌がかたまってあった。これらは父が亡くなって「作家」と呼ばれる所以なのだ。吉行淳之介氏らと同人雑誌「葦」を発刊、第十四次「新思潮」編集に携わったということ。「葦」は本当に質素なしつらえで時期が感じられるが、二十一年三月二十五日発行の創刊号は戦時中に同人が書き溜めた作品中心で、他に先駆けて刊行した為に印象強烈だったのだろう。時流を捉えて素早く行動する面 を持った父の働きによるものかどうかは分らない。

 手の届く所に入っていたものだが見たことが無かった。それがそっくり現れた。自己誇大的な人なのに周りの者には見せなかったし手許にあることも言わなかった。第十四次新思潮という呪文のようなタイトルはよく見聞したが、新思潮というのは全く父には似つかわしくない古臭く、教条的な言葉である。「椿實全作品」(一九八二年二月一日 立風書房)の解説に中井英夫氏が「新思潮という古めかしい名で新雑誌を出すことはどうしても嫌だったが、嶋中(鵬二氏)に説得されて渋々従った」と書いている。うち新編集号と謳った第五号は一〜四号とは異なる。河野鷹思さんの表紙は薔薇色にサイコロとパイプがマチスの絵のように浮かんでいる。飾画などは父の手が入り、目次の周りの唐草模様は好んだ形だ。新機軸の装丁もこれきりで第十四次新思潮は短命に終わったが、同人誌というよりは稿料を払って広く原稿を集めたという特徴があり、父にとっては第二号に掲載された作品が世に出る契機となった。

 特に気に入ってくださったのが柴田錬三郎氏と三島由紀夫氏で、個人的交流に繋がり、この二人が昭和二十四年五月二十八日の結婚式にご出席下さった。母の師である無教会派キリスト教の植村環先生と揃った写 真は、時代とはいえ興味深い組み合わせである。家に残った葉書から推察して褒め方は柴田さんの方が熱狂的だったようだが、同年の父と三島氏はあるレベルで非常に惹かれ合ったようだ。群像に載った「人魚紀聞」を端正な文章であっさり、「今まで拝見した御作のうちで一番私の好きなものです」(一九四八年九月二一日受)と言ってくださった葉書があるのだが、その筆跡だけで私でも参ってしまうだろう、と思う位 のインパクトがある。そう思って読むと「人魚紀聞」には三島氏の遺作である「天人五衰」四部作中のシャムの姫君などと近く響きあうエキゾシズムが流れる。直接の交流は永いこと無かったと思うが、三島氏の死後十年以上を経てから父は「三島由紀夫と天人五衰」(「日本及日本人」昭和五十七年四月)を書き、結婚祝いに手に載せてお持ち下さった紫色カットグラスの小ぶりの花瓶は主亡き今も健在だ。[「人魚紀聞」は河出文庫の澁澤龍彦編「暗黒のメルヘン」(一九九八)、カッパノベルス 井上雅彦「人魚の血」などにも収録された]

 家屋改装の為、期日を決めて整理することになり本腰を入れると、出版物の他にノートや原稿も見つかった。全集刊行と前後して旧宅からは引っ越しているので、持って来た物には恣意的セレクションが働いていると考えられるが、古くは十五歳位 の作品から旧制高校一年(出征まで)の日記、文芸雑誌に盛んに掲載された頃のメモなど多岐に亘る。ノートは(二〇〇二年一一月一二日現在)歌集四冊、句集一冊、日記三冊、観察日誌一冊、これらの入り混じったものなど計十三冊見つかっている。内容は詳細に検証できていないが高校一年の日記の装丁、観察日誌や歌集中の挿画が印象に残る。もともと視覚的なもの音響的なものが強い人だ。十代の歌など早熟だが文字の効果 が相当あり、発表されている三島氏の作品や手紙等と比較すれば可愛らしい、と言えるかも知れない。旧制高校一年で徴兵検査、出征を控えて戦死が確実に視界に入っていた背景を考慮すれば、感傷はむしろ抑制されている位 だ。

 一九六〇年代頃、歌集を三回に渡り自分で印刷・出版したうち、第一歌集は出征前に書き溜め纏めた歌が中心だった。そのため古いページには印刷インクの付いた指で触った跡があり、ノートの一冊に昭和二六年分まで書き込みのある年譜が入っている。これは非常に読みづらいが、父しか知り得なかった事項が相当にある(しかし一〇〇%事実かは別 )。

 書籍の整理期限を父の誕生日である十月三十一日に決め、その直後に廃棄物処理業者が入る日に、義弟が原稿のかたまりを発見した。居室に入るドア横の大きな書棚の上にポンと置いてあり、自分が非常時に持ち出すつもりか、他人にも必ず見つけられることを期待したかのようだった。全集刊行時に各作品の初出コピーに手を入れたものと章割のアイデアなどがひとつ、「椿實全作品拾遺」という封筒に全集未掲載作品コピーを纏めて綴じたもの、同様に「椿實宗教文学論集」としたものである。更に「メーゾン・ベルビウの猫」というタイトル、ビニール・カバー付き封筒で格別 大切に保管された未完の草稿がある。副題は「アメ横繁盛記」で「三〇〇枚」と表紙にあり、章立てしたアウトラインはあるが九十ページ程書かれて終わっている。この猫のタイトルでは豆本を作成したことがあり、このテーマで久しく書かなかった小説を書こうとした様子だ。

 実は父は「筆を折った」と一種ロマンティックに語られるのとは裏腹に、依頼された時は割合気軽にエッセイや短編もどきの文章は良く書いていたのである。幻想小説・怪奇小説・ファンタジーの分野でマンガの原作となったもの、百人一首をもじった「百人一朱」という(私から見て)一〇〇%ポルノと思える短編をSM雑誌に連載したものまで全て本名で、「拾遺」の中にも堂々と並べているのである。若い時から純文学とか中間小説とかの区別 をする発想が全くなく、コミュニティ雑誌でも啓蒙雑誌でも書きたい内容で書くのは父の本領だったが、案外この辺りが生業として作家を続けていられなかった要因のひとつかも知れない。

 この稿もそろそろ閉じるべき時だが、途上で一九四四年一一月一五日付け日記記述に「紅子」という「女優と評論家の間のかくし児」の女性が登場するプロットを発見した。父を識らず、後に母をすてくだらぬ 男に行く云々。これは余りに出来すぎではないか?「みどり子」や「すみれ子」は見つかっていないので花瓶や時計などの整理は彼女達に任せ、「紅子」は今しばらく原稿や古雑誌と向き合う必要がありそうである。
                            (二〇〇二年十一月十四日)

千代田フォーラム『耕心』