長谷川利行の『黄色い画』
椿 紅子

 長谷川利行という画家、本当はトシユキというのだがリコーと呼びならわされていたようだ。1940年に49歳で没し、現在は広く一般 には知られてはいないと思う。しかし、物心つく頃の我が家では子供の耳に覚え易いリコーという名がよく聞かれた。それは、両親が結婚してから増築した2階洋間の壁にその作品がかけてあったからに他ならない。1952年頃に来客に抱かれた私の写 真のバックにも見える。

絵画や小さい彫刻などは他にもあったが、そのリコーの印象は非常に強く椅子によじ登って確かめた油絵の具の感触まで良く覚えている。大きさは25号、何と言っても色が強烈で、横たわった構図の裸婦とその背景が全体に鮮やかな黄色、輪郭が赤や青や緑だ。殆ど絵の具のままの色だろう。洋間は小学校高学年頃から私の勉強部屋となり、絵の下のソファベッドに寝たが裸婦でもエロティックな感じは全く無く、明るい色に元気付けられるようだった。

1980年代に父が突然売却した絵に再会したのは2000年秋、東京ステーションギャラリーで開かれた「没後60年長谷川利行展」においてだ。会場の奥まったところに「青布の裸婦」(1937年)として飾られた絵はやはり黄色く浮き上がるようだが、頭の下で手を組み膝を曲げ、ドカリと寝ている女性は紺色の何かの上にいることに気付いた。お尻が不自然に直角に近い輪郭なのはその布に沈んだ形ともとれ、豊かな下半身だ。背景を知れば街中のカフェの女なのだろうが陽の当る草原にでも寝ているようにゆったりとしている。1937年は画家が最後に団体展に出展した年、身体具合も悪くなっていく頃だが作品はそれ以前と比べて色が明るく、場合によっては白が勝っているのは利行の作品の多くに初めて接した私を強く印象付けた。 1

2002年3月に父が急逝した後、書架から絵の由来を知る手がかりが幾つか出てきた。まず、コミュニティ誌「うえの」1970年10月号に書いた、『長谷川利行のNude』という文章。

 “TOSHIYUKI HASEGAWA 1937とサインのある「青布の裸女」という黄色い裸婦が私の室内にある。25号のかなり大きな絵で、イタリア製だという額ぶちに入りきれないボリュームの裸女が頭の下に両手を組んで仰向けに寝ている。チューブからしぼり出した絵の具を、荒々しいタッチで、コテで削り上げた手法で、一種彫刻的な、盛り上がるエネルギーを発散している。
  この絵に出逢ったのは、昭和24年の頃と思うが、松坂屋で利行の遺作展があって2 、会場にたまたま式場隆三郎氏がおられて、式場先生におだてられて、何となくこの絵を買うことになってしまった。私どもはまだ文科の学生だった。羽黒洞主人は大変気前がよくて、別 に「菊花」という赤いダリヤのような菊の花の利行の小品を、おまけに付けてくれたものである。3
  式場先生の売り込みでは、「三好十郎が近く発表する『炎の人』なる劇中で、長谷川の宣伝をやるから、買っておきなさい。」ということであった。私はそのころ「群像」に小説を二篇ほど書いていたので、講談社からは毎月「群像」が来ていたが、それに『炎の人』というゴッホの生涯を劇にした三好十郎の作が発表されて、その最後のあたりで「佐伯祐三、長谷川利行」の絵を買わないやつは「人でなしだ」というセリフがあったので、ヤレヤレと思い、長谷川の絵を買っておいてよかったと思った。「絵を買う」ということには、よほどの縁が必要なのであろう。あの時、欲しいと思った、上野駅前の地下鉄ストアを描いた大作があって、憂愁をたたえた大時計板が、四角い建物に「地下鉄ストア」の文字を円形に浮かしていた。4 上野・浅草の「都会の憂鬱」を愛する者にとって、忘れ難い風景画である。”

 “利行の生活を考えてみると、この青布に横たわる裸女も、玉 の井か何かの密室なのかもしれなおい。この寸づまりにデフォルメされた黄色い裸婦は、また縄文時代の地母神のようでもある。……利行のNudeを見ながら、私は「美の呪力」についてそんな気の遠くなるようなことを考えている。”

 父に画を仲介した羽黒洞主人は木村東介氏で、お店は最近では天神下にあった。その地縁もあってか「うえの」は表紙に利行作品を用いていた時期があった。

納戸の中の古い書棚から利行画集やカタログが三種類見つかった。
@「長谷川利行画集」(天城俊彦編集) 昭和17年6月25日初版 
昭和17年、9月19日改訂増補版(1500部) 明治美術研究所
没後2年を経ない出版、配給元が日本出版配給株式会社となっている。巻頭の原色版8葉の8番目に「青色の裸女」がある。残りは白黒で図版計48、遺稿の短歌作品も収められ、晩年の故人に近く、大福を百個買って板橋養育院へ訪ね遺骨を引き取る羽目になった天城氏による詳しい手記が貴重である。5

A「放浪の鬼才長谷川利行展」(東京新聞・東京中日新聞)図録 1968年3月 上野松坂屋
会期;3月12日〜17日(6日間!) 入場料150円
図版56点、出品作品は主催者あいさつによると150点余、挟み込みの木村東介解説によると200点余。カタログは全50ページ足らずの地味なものだが文章を寄せているのは、熊谷守一、有島生馬(矢野文夫編『夜の歌』1941に前出)、東郷青児、高橋新吉、緒方拳、中曽根康弘、木村東介(別 紙挟み込み)

B「放浪の天才画家長谷川利行展」(毎日新聞社)図録 1976年2月 三越ギャラリー
[会期;1976年2月3日〜15日] 出品作品215点 図版138点。 文章はAからの再録のほか、東山魁夷、中村歌右衛門、山岡荘八、木村武雄、小幡欣治、森光子、渥美清、矢野文夫、木村東介

東山魁夷の文章は短いが印象深い
 “ 烈しく雨が降っていた。薄暗い午後であった。芝の美術クラブで羽黒洞木村東介氏の開催している「長谷川利行展」を見に行った。私はその中で「裸婦」の小品に特に心をひかれた。極度に単純化された表現の、不思議な作品である。私はそれと「赤い家」の二点を買った。どちらも孤独感と寂寥感をたたえた中に素純なものが光る作品である。矢野文夫氏著「長谷川利行」の年譜を見ると、三日間の入場者が、僅かに37名であったと記されている。昭和23年のことであった。私自身、漸くどん底から這い上がって来たばかりの頃で、絵など買う余裕は無かった筈である。恐らく、よほど安い価格であったのだろう。その頃、住んでいた工場の事務所の二階借りの、狭い部屋にそれを掛けた。
  この絵は、私が生れて初めて買った絵である。

AとBに「青布の裸女」への言及はないが、父はこの絵を所蔵しているのを別 に隠してもいなかったので、雑誌「一枚の絵」1975年5月号の『一枚の絵と私』に『稿料で買う絵の思い出』として絵と共に写 真入りで登場している。それによれば、中学生時代に初めて買ったのは東郷青児の「シュールな絵」で80円。学生時代に買った長谷川利行については三好十郎の戯曲を引用して、“こんないい絵を買わないのが悪い”と25,000円払ったことになっている。注意すべきは場所・日時・値段など自分の都合の良いように脚色するのは作家たる父にとっては朝飯前、しかも戦前戦後の貨幣価値は目まぐるしく変わり、本当はどの程度の出費だったのかは良く分らない。 1980年代半ば頃に、ある日帰宅して突然「売ったよ!」と言ったので、家族は半分あっけにとられ、半分は何と勿体無い、と惜しく思う面 もあった。詳細は私達も不問が通例、おそらく羽黒洞さんがしかるべき買い手との仲介をして下さったのだと思うが、当時の世情を考慮すれば相当な額だったろう。 私は、父は特有の相場観で利行の絵を手放したのだとずっと考えていたが、東山画伯や父自身の文章を読むとそればかりでもない気がしている。「絵を買う」ということには、よほどの縁が必要、なのだ。放浪しながらタバコの箱や絨毯の切れ端にでも描きまくった末、行路病者として収容され「俺に絵を描かせろ!」と泣き叫びながら死んだ、という画家の作品を戦後早い時期に入手したのは、まさに感性の出逢いである。「いい絵」と思えばそれだけ、その作品から多くのエネルギーを汲み取った後には、家族よりはその価値を鋭く感じ取ってくださる新しい所有者の手に渡るように、と考えたのではないだろうか。

  絵画のみならず、現在では音楽や映像でも遺せるが、それに対する感性は残らないことを強く考えさせられる。私の結婚相手が実は野口弥太郎という画家に連なる家系で、ビジュアルなものに関して響きあう点があったかもしれないことを父は知ることが無かったと思う。

(2003/12/09)

1 自分が手放した絵を展覧会で見たいかどうか、父は複雑だったようだが末妹の一家と外出のついでに寄ってやはり満足していたようだ。丁寧に保存されているのは明らかだし、公共美術館収蔵の代表作の数々と並べても遜色無い、力のある作品と確認できたと思う。しかし、この事について語り合う機会は無かった。

2 1951年3月に松坂屋で新聞社(詳細不明)の「長谷川利行展」開催の記録はある。しかし「文科の学生だった」というと、その前か?

3 「菊花」の所在は不明。

4 この絵は1932年作、帝都高速度交通営団すなわち地下鉄ストアーのオーナーが所蔵しており、交通 博物館蔵の赤い機関車庫の絵と共に私も見たことがあった。

5 画家と文筆家の相違はあるが中井英夫のことを想いおこさせる。 それでも値段はかなり高く、どうして工面 できたのかと思う。坪内祐三編「文芸春秋八十年誌」再録の昭和23年8月号対談(p.199) で河盛好蔵が言うように、「小説家にしても新円階級で最も恵まれてる人」であった証左なのか。