皓星社(こうせいしゃ)図書出版とデータベース

宮台真司×穂村弘トークセッション「歌人・中澤系が生きた時代、そして今」

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中澤系歌集『uta0001.txt 新刻版』(双風舎)刊行記念
2015年6月6日(土)於 紀伊國屋書店新宿本店8階イベントスペース

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谷川 本日はご来場いただき、ありがとうございます。司会を担当する、双風舎の谷川です(同社は2015年に破産)。まず、本日のゲストを紹介します。
宮台真司さんは、1959年生まれの56歳。社会学者で、首都大学東京の教授です。専門は社会システム理論ですが、サブカルから恋愛、天皇、そして沖縄問題など幅広い分野にわたって発言しています。TBSラジオの「デイ・キャッチ!」では、金曜コメンテーターとして、辛口のコメントを連発しています。
もうお一方は、穂村弘さんです。1962年生まれの53歳の歌人です。1990年の歌集『シンジケート』(沖積舎)でデビューして、ニューウェーブ短歌を引っぱった存在の一人といわれています。『短歌の友人』(河出文庫)では第一九回伊藤整文学賞を受賞。エッセイストとしても活躍し、新聞の短歌コーナーや雑誌での連載も多数。
お二人は、本日が初顔合わせとなります。あと、本日は中澤系さんのご遺族であるお母様と、妹の瓈光さんもいらっしゃっております。
さて、双風舎がなぜ中澤さんの歌集を刊行し、どうしてここに宮台さんがいるのかという話を、簡単にさせてもらいます。
『中澤系歌集 uta0001.txt』という本は、雁書館から2004年に自費出版で刊行されています。その後、在庫がなくなり、ご遺族や中澤系プロジェクトのみなさんが重版をしようと考えます。とはいえ、そのときに雁書館は廃業してました。そこで新たな出版社で出そうということになります。
中澤系さんの妹の瓈光さんが出版社を探すことになるのですが、その探す基準がとても風変わりで、「兄は宮台さんを気に入っていたらしい」という基準だったんですね。それで最終的に、瓈光さんが宮台さんと関係の深い双風舎を選んでくれました。私も中澤さんの短歌に興味を持ったので、引き受けることにしました。
こうして、新刻版の編集作業が進むことになります。私としては、せっかく双風舎で出すのなら読者層を広げたいと思いまして、宮台さんに声をかけました。すると宮台さんは、快く解説の執筆を引き受けてくれました。
そんなわけで、本日は歌集のトークセッションだというのに、社会学者の宮台さんがここに来ている、というわけです。さらに、トークセッションを実施するのにあたり、短歌の専門家にも来ていただこうと考え、中澤歌集の初版の栞に寄稿されている穂村さんに声をかけました。
トークは二部構成です、第一部が「絶望編」。主に中澤さんの作品についてお二人に語っていただきます。第二部は「希望編」。主に中澤さんが短歌を詠んでいた時代の気分について、お二人に語っていただきます。

中澤系が生きた時代 ——絶望編——

あれって画期的だったんじゃないの?

谷川 中澤さんの作品世界を語るときに、私にはとても気になることがあります。それは、本日のように穂村さんと宮台さんを出会わせた中澤さんの吸引力って、いったい何なのかということです。
ご来場の方のなかで、中澤さんの本を買われた方はいらっしゃいますか?
どうして買ったのですか?

観客A 穂村さんの著書とかで、何首か見ていて、それでちょっと気になって……

観客B ツイッターでたまたま中澤さんの短歌が流れて来て、「なんだこれは?」っていう感じで、そがきっかけで興味を持って。

谷川 なるほど。では、まず穂村さんから中澤作品の評価と魅力をお話しいただけますか。

穂村 中澤さんが短歌の世界に登場されたときの状況みたいなことを少しご説明すると、もともと韻文である詩歌は小説みたいな散文とは違うんで、たとえば散文が地面を歩いて行くような表現だとすると、詩とか短歌って空を飛んでいくようなイメージですね。だから、翼のある言葉を比べっこするみたいな、そんな世界なんです。
短歌のコンテストとかがあったとき、言葉の翼比べみたいになって、やっぱり若い人の方がきらきらしてたり、女性の方がしなやかだったりするっていうことが、80年代ぐらいから続いていたように思うんですね。
ところがあるとき、その状況が変わり始めた。地を這うような短歌が現れたんです。すごく苦い体感が韻文で表現されているような。主にその書き手は若い男性作家で、名前を挙げると斉藤斎藤であるとか永井祐であるとか……。2002〜2003年くらいに、そんな転換点があったように思います。
中澤さんの歌集が出たのが2004年で、作品が詠われたのは2000年前後です。で、僕はリアルタイムでそれを見てたんだけど、ずいぶん苦しそうな作品世界だなっていうふうに思っていました。僕らはいわゆるバブル世代なんで、いまの若い人たちはこんなに苦しいのかなって、読みながら思っていた。
中澤さんよりも年下の男性たちが、短歌の世界をある意味で拡張したっていうか、地べたを這うようなポエジー(詩情)を詠い出したとき、その先駆者のようなイメージで中澤さんが捉え直されたのではないか。
中澤さんは、ALD(副腎白質ジストロフィー)という病気を患っていたこととかがあったので、遡って評価されたようなイメージが、僕なんかにはあるんですね。繰り返しますが、2002〜2003年あたりに短歌の世界の転換点があって、この歌集が出たのが2004年。そして、実際に本に収められた作品が詠まれたのは1997年、1998年、そして2000年。
つまり、短歌の転換期に至った際に、中澤さんの歌集が刊行され、そこで詠まれている歌は転換期の前のものだった。そこで「もしかして、あれって画期的だったんじゃないの?」っという評価が少しずつ浸透していったという印象です。

中澤系は両面性を表現した?

穂村 この歌集のタイトルは、『uta0001.txt』なんだけど、妹さんの「あとがき」によると、もしかしたら「シュガーコート」、つまり糖衣錠の「糖衣」というタイトルになった可能性もあったとのことです。本の目次を見ると、Ⅰ・Ⅱ・Ⅲと3部に分かれていて、Ⅰ部だけにタイトルが付いている。それが「糖衣」で、「シュガーコート」というルビが振られています。そうなると、なぜ「糖衣」という言葉が、中澤さんにとって重かったのかが気になります。
たとえば、「正露丸」っていう薬があって、「正しい」の「正」に露西亜(ロシア)の「露」、それと「丸薬」の「丸」で「正露丸」です。しかし、もとは「正」ではなく「征伐する」の「征」が使われていた。つまり、日露戦争などのときに日本の軍人が携帯していった薬というような由来があった。戦後、それじゃまずいので、じゃあ字を変えればよいとなって、征伐の「征」を「正」に変えたと。
でも、だからといって、露西亜が正しいといってる薬ではなくて、単純に名前を変えただけなんですね。だから、価値観や善悪を別にすると、「征露丸」のほうが意味を持つ言葉だといえます。言葉としての「正露丸」は、デクノボウなのです。
いまは「セイロガン糖衣A」っていうのがあって、「セイロガン」が片仮名になっている。くわえて「糖衣」は漢字で、「A」はアルファベット。もはや意味のない言葉になっています。つまり「征伐する・露西亜・丸」から、当て字の「正しい・露西亜・丸」になって、いま片仮名の「セイロガン糖衣A」になったと……。これって、絶対に逆転しないんですよね、順番が。正露丸という薬が、糖衣錠から始まってこの世に現れるってことはないわけでしょう。まず、苦い薬がこの世にあって、それから、「でもこれ苦いねっ」ということになり、「効き目が同じなら甘くなんないのかなぁ」ってみんなが考えて、糖衣にするっていうことなんです。
中澤さんの歌集を読むと、そういう言葉がいっぱい出てきます。たとえば準急電車の「準急」。この世に電車ができたときいきなり「準急」は出てこない。まず「普通」があって、次に「急行」ができる。「準急」は絶対、その次ですよね。あと、「切れてるチーズ」。これも、切れてないチーズがまずあって、それから「切れてるチーズ」ができる。
僕らの世代だと、その時系列やプロセスを追える。けれど、いま20代の人とかは、いきなり準急や切れてるチーズ、そして糖衣錠があるところに生まれてくる。だから、普通から急行を経て準急となったという、その時間の流れがわからないことがある。
ほかにも「弱冷房」とか。「弱冷房車」はいきなり出現はしないわけ。まず冷房車が生まれて、最初は「ああ涼しいねえ、最高だね、便利だね」っていってたけど、「ちょっと寒くありません?」って若い女性とかが言って、弱冷房車があとからできる。そして「弱冷房の準急の女性専用車両」とかになっていくわけでしょう。どんどん付け足されていく。
僕が子どものころは、弱冷房も準急も女性専用車両もありませんでした。これって、システムがどんどん完備されていくということで、一応いいことだといえましょう。みんなが望んで、もう苦い正露丸飲まなくて済むとか、ちょうどいい冷房の電車選んで乗れるとか、ラーメン屋に行って麺の硬さとか油の量を選べたり、スターバックスに行ったら「ちょっとミルク熱めで牛乳を豆乳にしてください」みたいな。どんどんシステムが完備され、きめ細かくなっていく。
それはそれでいいのだけれど、そうすると我々はどうなるのか。どんどん「ユーザー」になるんですよね。もともとユーザーなんだけど、それがどんどんきめ細かく快適になるにつれて、こっちもユーザー然としてそれに適応する。ラーメン屋とかスタバで「だいたいでいいんだよ!」とかいいたくなるけど、それは逆に許されない。だから、おじいさんとかが入ってきて、「ラーメン!」って一言だけで注文したりすると、かっこいいなって思うわけです。
僕がよく思うのは、亡くなった高倉健さんがコンビニに行くのかということ。それがすごい気になっていて。テレビでSMAPのだれかが、彼に向かって「健さんもコンビニに行くんですか」って聞いたとき、ものすごい緊張感が走った。僕の中にね。放送事故じゃないかって思うくらい……。健さんはうまくごまかしてました。行くとも行かずともいわぬ感じで。さすが長年、高倉健をやってるだけのことはあるなって思いましたが。
もちろん、「行く」とはいえませんよね、高倉健である以上は。低糖でカロリーオフのヨーグルト買ってるよとかいえない。でも「行かない」っていって、「ほんとか?」って思われるのも嫌でしょう。つまり、どっちにしても危険な問いだったと思うわけです。でも、僕らは高倉健じゃないから、コンビニに行きますよね。
そうなると、問題はいま僕がいってることを、どっちの感じで捉えるかということになります。これは世代差や個人差だと思うのです。「便利できめ細かくなって、いいじゃないですか」って思う人もいれば、「ラーメンやコーヒーなんか、だいたいでいいんだよ」っていう人もいるわけです。
で、中澤さんの歌集を読むと、システムがどんどん整って、僕たちがユーザーとして構造化していくってことに対するマイナス面に対する感受性がビリビリですよね。90年代に詠まれている短歌なのに、その時点で、中澤さんはそのことをすごく意識している。
たとえば、僕が持ってきた短歌の二首目はこれです。

許されるならば切りたし春の日に「切れてるチーズ」を作った奴ら

これはジョークなんですけど、ある程度は本気で、手も汚れないし便利にしてくれたのに、それを開発した人たちを許されるなら切りたいというわけです。それが自分をスポイルするっていうことをよく知っているから、ここまでいうのです。
いまの短歌に一見、矛盾するのが隣に紹介したものです。

小さめにきざんでおいてくれないか口を大きく開ける気はない

「じゃあ、いいじゃん、切れてるチーズでも」っていう話なんだけど。もちろんいいからこそ、「許されるならば切りたし」っていうわけです。その「小さめにきざんでおいてくれないか口を大きく開ける気はない」というレベルに自分の魂がスポイルされる危険を予感しているので、「切れてるチーズを作った奴ら」を切りたいといっている。
だからこの二首は、一見矛盾するようだけど裏表だといえます。
ようは、世界のシステムの中のチューニングにどんどん自分が合っていくと、その世界の変革の可能性が信じられなくなる。革命幻想みたいなものがいつまで僕たちの中にあったのかわからないけど……。短歌をやってる人は知ってるでしょう。岸上大作なんていう人がいて、自殺したんですよね。あの人は革命幻想に敗れて自殺したってことになっていて、遺書には吉本隆明への、なんかこうラブレターのような恨みつらみのようなことが書いてあって死んじゃった。
それと三島由紀夫と寺山修司。三島が死んだあとは、そういう幻想も死んだっていうふうになんとなく思われています。でも、寺山なんかも、ある程度は信じてた節があります、言葉による革命幻想を。でも、なんていうか、セイロガン糖衣と切れてるチーズに取り囲まれていくと、魂の脚力みたいなものを維持するのがむずかしいというか、そういうこと対する強い焦燥感が中澤さんにはあったみたいなんですね。この歌集を読むと。それがいま、後続世代に、あるシンパシーを持って受け入れられるっていうのかな。そのことに対して、僕は興味を持ちますね。
一番最初に「糖衣」が出てくる短歌を挙げてあります。

糖衣がけだった飲み込むべきだった口に含んでいたばっかりに

これも、とてもアンビバレントな心境ですよね。糖衣だから甘いと思って舐めていたら苦いのが出てきちゃったから、早く飲み込むべきだったなって表面上の意味としてはいってる。だけど、飲み込んでいたらそれが苦い薬だったっていうことは知覚できない。糖衣で甘いって思っていたけれど、ずっと口の中で舐めていたからこそ、中身の薬が本当は苦いっていう、いわば真の姿に直面できる。中澤さんの世界では、その両面性を常に表現しているのかなぁ、というふうに思います。

ある時代の世界体験や社会体験を代弁的に記録してくれた

谷川 では、穂村さんの話を敷衍して、宮台さんからお話しいただけますか。

宮台 宮台真司と申します。穂村さんよりもたぶん3つか4つぐらい年齢が上で、中澤系さんよりも10歳上という感じの歳です。中澤系さんが1998〜1999年くらいに歌を詠んでいたときは、僕がかなり重い鬱状態だった時期と重なります。
システム化が整い、フラット化していくなかで、隙間や余情がなくなっていく、と穂村さんがいわれました。具体的には1980年代から始まる動きだと思います。その結果、非常にどんよりとした、なんともいえない気分に、僕たちが覆われていくわけです。
一方に、80年代半ばのコンビニの普及がありました。85年の「あいててよかった」第一弾CMが象徴するものです。他方、小川の暗渠化や鉄柵化、屋上や放課後の校庭のロックアウト、公園からの箱ブランコ撤去、焚き火禁止の厳格化などの動きもありました。
にもかかわらず、80年代後半からのテレクラブームや90年代前半からの援交ブームもありました。これに飛びついて取材を重ねましたが、線香花火の最後の輝きのようにして96年には終わり、街から微熱感が消えて、ルールが支配する冷たい時空だけが残りました。
僕は、ルールの外側で共有された微熱感の中を、長く生きてきた人間なので、冷たい時空に打ちのめされてしまい、谷川さんはよく御存じですが、90年代末に鬱でつぶれました。そんな経緯もあるので、僕自身にとって、中澤系さんの歌は非常に刺さるんです。
歌集の短歌が詠まれたのは、中澤さんが30歳の頃。当時の僕は40歳です。そして、中澤さんのこの歌集の中には、彼がテレクラを使っていただろうなあと思える歌が3〜4首あります。中澤さんは20代後半、僕は30代後半に、微熱感の残り香を嗅いだんです。
ここには知らない方が多いでしょうが、僕は85年から96年までナンパ師でした。テレクラ、デパ地下、映画館、街頭とかです。今はナンパはしないけど、雑踏を歩く見知らぬ人の心に入り込んで、その人から世界が見えているのかなって想像する癖があります。
それで思うのは、女性が大勢いる中で失礼かもしれないけど、最近の女性には見かけはきれいになった方がいっぱいいるけれど、心の眼で見るとブサイクな女性が多くなったなあってことなんですね。それが、見ず知らずの男女間で生じる余韻や余情に関係します。
最近の女性たちの心にダイヴして世界を見ても、世界が輝いたりワクワクしたりしないんです。社会学者としてよりもナンパ師の観察眼だけど、社会のフラット化による心身の劣化現象、心身の劣化による社会のフラット化=法化現象が、両方とも観察できるんです。
本に書いてきたように、ナンパ師からみて劣化が感じられたのは92年からです。僕がブルセラと援交の存在に気がついた頃ですね。実は前年の91年、テレクラやその頃に拡大したダイヤルQ2での出会いに、金が絡むようになります。以前は金が絡まなかったんです。
それでも、金は口実に過ぎない子が大勢いて、僕にとって援交取材に意味があったんです。語りたいことがたくさんあるアクティブな子たち。しかし、そういう子は96年にいなくなりました。なにも語ろうとしない自傷系の子だらけになって、僕はナンパも取材もナンパもやめました。
こうした90年代に、中澤系さんは20歳台、僕は30歳台でした。僕の推測どおりに彼がテレクラナンパ的なものに乗り出していたのだとすると、ものすごい勢いで性愛コミュニケーションが劣化していく様子をまちがいなく体験していたはずなんですね。
僕がそうだったように、中澤さんも精神的に落ちていく。そんな彼の90年代を、僕は彼の歌の中に読んでしまうんです。実際にそうだったのかはわかりません。けれど僕はそういうふうに読んだ。だから、僕の体験的な視座から解説を書かせていただいたわけです。
穂村さんがおっしゃった「完備ぶり」や「細かさ」の話でいうと、僕が教育関係の講演で必ずいってるのは、「細かい人間は必ず人を不幸にする」ということです。「すべてはたいがいでいい」と。自分の子どもにもそう教えています。「細かい奴はクズだ」と。
そのせいで、僕がなにかいうと「パパ、細かいね」って逆襲にあっています(笑)。ともかく、細かい奴はほんとダメです。隙がない人ってよくない。まともな人は戦略的に隙を作ります。すると、隙に気がつく人と、気がつかない人を見分けることができるんです。
隙に気がつくのは、実は細かくない人なんですよ。だから、今の大学生よりも、僕が大学生だった頃の大学生の方が、隙を見分けられました。たとえば、キメキメにきめている「高嶺の花」的な女がいれば、大学生だった僕らは、それを戦略だと受けとったんです。
どんな戦略かというと、見掛けに騙されずにハードルを越えてくる男を見極める戦略っていうことと、キメキメに見えて随所に見せる隙をちゃんと見つけてくれる「まともな男」「女の心を自分に映し出す男」を見極めるための戦略っていうことです。
ところが、ルールの外側に出たがらない昨今の「細かい男」は、まじで馬鹿ぞろいになりました。女の子が無理目に見えると、無理だと思っちゃうのね。それが僕のいう「男の劣化」です。そんな男を相手にしてしまう「劣化した女」が増えたのも、理由でしょう。
こうして残念なことが起り続けている中で、残念なことが起こっていることに気がつく人たちが今もやはりいます。そこには若い人たちもいます。そんな人たちが中澤系さんのこの歌集を読んで、やはり……と受け止めているんだろうと、僕なんかは思うわけです。
ルール通りということは、システム任せということです。システム任せは、「望ましいけど悍ましい」。逆に、ルール通りいかずにシステムに任せられないのは、「悍ましいけど望ましい」。不思議なことに、世の中にはそういうことがいろいろあるんです。
「死」がそうです。死は悍ましいけれど、死を意識するとフラットな日常が輝きに満ちたりもします。ハイデガーもそういっていますよね。SF作家のバラードも破滅三部作でそんな感覚を描いています。「悍ましいけど望ましい事態」を僕たちは忘れちゃいけない。
さて「死」を意識すると、人は変性意識状態に入ります。システム任せにしている時にシステムの外が露出すると、やはり変性意識状態に入ります。変性意識状態とは、雑多な感覚が遮断され、特定の感覚に没入した状態のことです。反対が、通常意識状態ですね。
僕たちのシステム依存を表すのが「準急」や「糖衣」といった言葉だという話を穂村さんがされたので、別の観点で話しますと、「苦い」や「耳鳴り」といった中澤さんの言葉は、「死」や「システムの破れ目」を意識するのと同じで、人を変性意識状態に導きます。
『「絶望の時代」の希望の恋愛学』(KADOKAWA)というナンパ本に書いたけれど、変性意識状態に導けば、任意のものに没入させられます。中澤さんの歌が「呪われた部分」を開陳すると、一瞬で僕たちは、翳った世界というか、感覚が鈍磨した、日の射すことがない世界に、連れていかれます。
あえて愚直にいえば、心の世界です。僕は映画や音楽や演劇の批評を書いて来たけど、短歌のことは書いた覚えがなく、谷川さんからいわれて久しぶりに短歌を読みました。僕が短歌に親しんだのは若い頃で、寺山修司が好きだったから彼の短歌は全部読みました。
穂村さんが革命幻想といわれたけど、映画やKADOKAWA音楽や芝居の歴史を見ると、「時代を変えられるぞ」という感覚があったのは1968年までだとわかります。それを「政治の時代」と呼ぶなら、69年から70年代半ばまではそれにかわって「アングラの時代」になります。
「政治の時代」には「ここではないどこか」を現実の社会に探しましたが、「アングラの時代」には、現実の中に探すのは諦めて、観念や思想の中に探すようになりました。現実を変えられなくても、心は現実にシンクロしないまま保てる、っていうような具合です。
現実には「ここではないどこか」が見つからなくても、心の中なら「ここではないどこか」を見つけ出せる思えた時代。寺山はその先駆けで、象徴でした。じゃあ、心の中の自由を満喫する、というか、自由を最大限に使うためには、どうすればいいんだろう。
答えは嘘をつくこと。経歴についても自分のイメージについても、現実を粉飾をする。彼の短歌はほとんどが剽窃、というか元歌にちょっと味付けした短歌ですが、元歌より百倍いい。自分が短歌の粉飾をするように、君も現実を粉飾しろ。寺山のメッセージです。
中澤系さんの短歌集を読んで「90年代末には既に寺山の短歌が遠くなっていたんだな」と感じ、「中澤さんの短歌をその当時に読んでいたら、僕ははまっていただろう」と思いました。その意味で、今回、中澤さんの短歌に出会えて、たいへんラッキーでした。
「90年代末には寺山の短歌が遠くなっていた」のはなぜか。「社会では不自由でも心は自由だ」なんていっていられなくなったから。中澤さんの短歌は、あの時代に鬱になった僕みたいな者にとって、時代の世界体験や社会体験の代弁的な記録集だと感じられます。

『uta0001.txt』はワンテーマを追った歌集

谷川 穂村さん。いま宮台さんから、1992年くらいからなんとなく世の中の劣化みたいなものが始まって、細かくなって、隙がない状況がどんどんできてきたという話がありました。中澤さんとは、この細かさや隙がない状況について、作品の中ではどういうふうにとらえていたんでしょうか。細かくなくて、隙があるのは、ほんとはいいんだよねっていってたのでしょうか……。そのへんが、宮台さんの話を聴いていて、すごく気になりました。
はたして中澤さんは、社会が劣化してることを自覚していて、やばいよねって思いながら書いてたのか。それとも、それはしょうがないよねと思って書いてたのでしょうか。

穂村 違和感はあったと思います。中澤さんには、世界のあり方みたいなものを、全身で体感しようっていう雰囲気がありますよね。あとは、他の歌人や他の歌集と比べるとわかることなんだけど、中澤さんの歌集は特殊な歌集で、愚直にワンテーマを追求してるんですよ。それは、さっき宮台さんがおっしゃってたようなテーマなんだけど。だから、同じことを何度も作品化しようとしていた。
たとえば、代表歌といわれてる、

3番線快速電車が通過します理解できない人は下がって

っていう、これがまあ有名な歌なんだけど。でも、それ以前には、

わからないのならばしかたがないですねとりあえずは信じておきなさい

とか、

理解する必要はないと出発の前にバスガイドが言ったじゃない

とか、同じテーマで短歌を詠んでいます。詩的に見れば、ダントツでこの「3番線〜」の歌がいい。そこに至るまで、何度も、最高の形で作品化しようというアプローチがあります。
彼自身がこの歌集の成立をコントロールできなかったっていうことも大きいんだけど、習作というか類想歌みたいなものが歌集にはいくつか入ってるんです。だから、私たちはいま、そのアプローチの愚直さを追うことができる。最初はこの形で、次にこれもやろうとして、最後にこっちから攻めていってクリアしたんだ、みたいな。次の短歌なんかもそうですかね。

定常化されてしまったみみなりのむこうもこちらも世界であると

耳鳴りが日常となるようにこの不定愁訴に慣れ始めている

これは「定常化されてしまった〜」っていう短歌のほうがよいですね。
宮台さんが変性意識っておっしゃったのかな、なんか読み手をトランスに運ぶような力が、「3番線〜」の歌にはあると思いますね。この下の句を読むと、なんかこう、特殊な意識状態に襲われます。「わからない〜」の歌や「理解する必要〜」の歌では、そこまでなりません。
だから、ものすごい愚直さと、ほかのことに目を向けず本一冊をワンテーマに費やしているっていうことが、非常に感動的なのです。歌集を読んだことがない人が中澤さんの歌集を読んだら、普通の短歌の本ってこういうものではないと思ってほしい。
この本は特殊なケースで、普通の歌集はもっといろんなこと書くわけです。会社のことを書いたり、家族のことを書いたり、お茶漬のことを書いたり……。中澤さんは、表面上ではどんなことを書いても、根本的には同じラインをいつも狙っていたわけです。

本の詳細はこちら→中澤系歌集 uta0001.txt

谷川 ちなみに宮台さんは、「3番線快速電車が……」っていう短歌をどのように読まれましたか。私が本を送って、一番最初にこれを読んだときの印象を聞いてみたいです。

宮台 本に寄稿したテキストに詳しく書いたけど、人は、若いときは性愛について不自由で、大人になれば自由になれるって思えるわけです。だから自由に憧れます。テクニックだけじゃなく、経験が、人や事態を理解できる能力を与えてくれます。それが自由です。
その自由に対する反語が「3番線快速電車が……」という短歌です。それによれば、自由になることが、よくないことなんです。快速電車通過のアナウンスを、多くの人がちゃんと理解して下がります。つまり自由なんです。理解できる人は自由だから下がります。
すると「理解できない人は下がって」っておかしいでしょ。「理解できる人は下がるが、理解できない人は下がらないことをやめろ」みたいな二重否定文なんですよ。「普通の人は下がる。あんたは普通じゃないので危ないから下がれ」みたいにも聞こえます。
そういう二重否定的な構造に、昔なら誰もが良きものと考えていたシステムというものに対するアンビバレンスを感じます。便利なシステムによってフラット化していく社会の中で、どんよりしていくばかりの個人の在り方への、否定的感情が中澤さんにはあった。
当然だけど、不幸だから不幸な歌が詠めるんです。そして、人は希望を抱くから失意に陥って不幸になるわけです。また、失意の不幸ゆえに奇跡を待望したりもします。現実に起こらなくてもいい。奇跡をリアルにイメージできるだけでも人は救われるからです。
そうした「不可能な夢」を頼みの綱として前に進む感覚、追い詰められた中で勝負している感覚を、感じます、実際、ワンコードで演奏し続けるチャーリー・パーカーみたいに、歌を詠み続ける営みを続けること自体が、ひりひりするマニフェストなんですよ。
苦難の試練を生き延びるチャレンジをしているから彼の短歌が生まれる。もちろん、汎システム化する時代に対しては否定的です。けれど、社会の流れを否定する構えの中に否定の気分しかなかったかというと、そんなことはない。現にチャレンジしていますよね。

穂村 「3番線快速電車が〜」の歌が、もし普通の文体だと「3番線快速電車が通過します理解できない人はお下がりください」みたいになるわけです。だけど、短歌の音数の要請もあって、そこまでひっぱれない。よって、下の句は突然声の主が変わってるような感じがするんですよね。
上の句は普通に駅員さんじゃないですか。「3番線快速電車が通過します」と。でも、後半になると突然神の声になってるみたいで。まあ、大きなシステムの声なんですね。上の句は現実の小さなシステムを管理する代行者としての駅員さんのリアルアナウンスでしょう。
繰りかえしになりますが、下の句は大きなシステムが突然口きいたみたいな、「えっ?」ていうような感じです。宮台さんがおっしゃったように、すごく混乱する歌なのです。スタバに行って、「理解できない人は帰って」ってお姉さんにいわれたら、僕は帰らなきゃいけない。けれど、理解できる人はお店に入れる。そこで違うじゃないですか、運命が。
でも、「理解できない人は下がって」っていうことは、理解できる人は下がるじゃないですか、電車が来るから。つまり、見た目の上では、理解できてる人も理解できてない人も同じ行動をとるわけです。それが怖いっていうか。
たくさんの人がいる中で、実はその各人にマークがついている。この人は理解できていない人とマークされた人もたくさんホームの上にいる。そして、俺はどっちなんだろうっていうことがわからない……。そういうことなのかな。
スタバの場合は「理解できない人は帰って」っていわれたら、「ようし、理解できるまでがんばるぞ」みたいなことか、「俺はドトールの人だから関係ない」みたいなことになると思うけれど、電車のホームはそうならないっていう。そんな感じなのかなあ。

宮台 穂村さんがおっしゃったように、この「3番線快速電車が〜」の短歌はすごいインパクトがあるんだけど、なんでインパクトがあるのかを考えると非常にむずかしく、いつも違ったビジョンが頭の中に出てきてしまうんですね。具体的にお話ししてみます。
下の句で下がれと呼び掛けられる連中はマイノリティティです。中澤さんから見ると、殆どの人は「上の句が理解できるがゆえに、下の句が理解できない」マジョリティ。中澤さん自身は「上の句を理解できないがゆえに、下の句を理解する」マイノリティです。
要は、この歌を理解できない人は、システムに汚染された存在なんだというわけです。
この歌を読んで衝撃を感じる人は、システムによる汚染を辛うじて免れているけど、多くの人は理解できず、システムに汚染され切っているのだ、と、選別をしているんですね。
僕もそうしたマーキングをしながら生きている人間だから、中澤さんが歌を通じてマークを付けてる感じがすごくわかります。ナンパの例で話したけど、見栄えに関係なく、その人から世界がどう見えてるのかを想像した上で、ダメとかイケルとか考えてきたからです。
見栄えとか性別とか所属とか年齢とかに騙される人は、中澤さんのいう「駅員のアナウンスをすんなり理解できる、この世界を全く理解していない頓馬」そのものです。とすると、しかし、この世界を理解できる人は何をすればいいんだろうという疑問が残ります。
二重否定構文をこうも解釈できる。この世界の真実を理解できる人は、下がらないで電車に当たるだろう。俺は理解できるから、下がらずに電車に当たるだろう。そうか、理解できるということは、当たってもいいってことか……みたいにいろいろ想像ができます。

穂村 1992年から劣化が始まったと宮台さんおっしゃるけれど、それ以降は劣化の一途っていうことなんですか。

宮台 1992年から始まった、劣化現象に対する抵抗が、僕は援助交際やブルセラだったと思ってます。具体的にお話ししますね。

中澤系が生きた時代 ——希望編——

「蝕の時代」と中澤系

宮台 解説に書いたけど、80年代に高校生女子や大学生女子の性体験率が急に増えて、80年代前半の〈性に乗り出せないがゆえの悩み〉が、80年代後半の〈性に乗り出したがゆえの悩み〉にシフトします。後者を象徴したのが86年の岡田有希子の自殺への共感現象でした。
かくして、ジュリアナ東京に代表されるディスコのお立ち台ブーム、素人女子大生のアダルトビデオ出演ブーム、読者ヌードブームなどが象徴するように、〈男の視線を気にしないセクシュアリティ〉あるいは〈性を通した自己関与〉へと、どんどん変わっていったのです。
その延長上に92年頃から女子高生の援助交際が出てきたので、93年にそれに気づいた僕は、驚くというより、とうとうそんな風になっちゃったわけね、という感じでした。これを男の劣化に対する抵抗運動だと思った僕は、あえて援護側に回ろうと決断しました。
80年代後半に若い女が〈こんなはずじゃなかった感〉を口にするのを、ナンパを通じて頻繁に聴いたことが大きいです。渋谷駅前で待ち合わせ、マックからテイクアウト、ラブホでエッチして終わり、みたいなホスピタリティを欠くデートに、うんざりしていたのです。
わかりやすくいうと、そこから「カネを貰わないとやってらんない」という具合にリーダー層の女子たちが援助交際を始めました。僕はそれを、〈こんなはずじゃなかった感〉を与えたショボイ男たちへの抵抗ないし仕返しだと思って、実に痛快に感じたのですね。
ところが1996年の夏休みが終わる頃からイヤな感じになってきます。僕のマスコミ活動も一因になって、援交の担い手が全能感系のリーダーから自傷系のフォロワーに移り、はじける感じが、暗い感じに変わり、微熱感に満ちた街も、気がつくと冷え切っていました。
援交は、抵抗でも仕返しでもなくなり、僕は取材から撤退しました。そのあたりから僕は精神的に苦しくなって、それにシンクロするかのように僕の周囲で大切な人たちの自殺が続きました。そんなこんなで、96年秋以降を「蝕の時代」と僕は呼んでいるのです。
こうして、99年には重い鬱状態になりました。大学が春休みに入る2月と3月の二ヶ月間は布団から起き上がれなくなりました。中澤さんが歌を詠んでいた時期にちょうど重なります。中澤さんに歌を詠ませたものと、僕を鬱にしたものは、同じ絶望だろうと思います。
しかし人は暗闇にも慣れます。2001年を境に、携帯電話の世帯保有率が五割を越えて、テレビの視聴時間が減り、携帯電話の利用時間が増えます。援交の動機も、自傷系が減って、従量制だったケータイ代を払うため、という「軽い動機」の女が増えていきました。
最初は抵抗運動、それが援交第一世代、92年からです。次が自傷行為、それが援交第二世代、96年からです。最後がお財布代わり、それが援交第三世代、01年からです。最初は使い過ぎたケータイ代のためだったのが、やがて貧困化を背景に生活費のためになります。
01年からのお財布援交は今日まで続いているけど、最初はケータイ代のためとか彼氏へのプレゼントを買うためとかで、常習援交から臨時援交に変わり、軽い感じになったのです。それが、ケータイ代が定額制になった頃から、生活費のための常習援交になりました。
援交というと、今は生活費のための常習援交という暗いイメージだけど、世紀の初めからゼロ年代半ばまでは、軽いイメージだったのです。当時は性愛だけじゃなく何事につけ「ハマるのはヤバイ」といわれ、適当にやり過ごすのがいいっていう感覚が一般的でした。
恋愛にもはまらない。表現にもはまらない。適当にキャラを演じる。場に合わせて生きる。そんな感じが蔓延していた時代です。そんな中で歌を詠うっていうことは、中澤さんが元気であったとしても、むずかしい時代だったのではないかな、という気がしています。
実際、僕も慣れたせいなのか、世紀の変わり目ほどは、世の中のフラット感に苛立つ感じがなくなりました。中澤さんも存命だったら、そうなったんじゃないかと思います。「蝕の時代」に慣れてしまえば、「時には翼が生えることもある」みたいな感じになりますよね。
僕はそれを「クソ社会の中で浴びるシャワー」って呼ぶけれど、音楽でも映画でもそうした表現が増えてきます。昔でいう「翼」とは違います。短歌について僕は知らないけれど、「クソ社会に浴びるシャワー」に「いいね!」ボタンを押す輩が増え、現在に至ります。

穂村 ところで、その蝕の時代の鬱的な状況から、宮台さん自身はどうやって脱されたんですか。というか、まだ脱してないんでしょうか。

宮台 脱しました。社会全体のことは見ないしコミットしないと決めたのです。ラジオでもネット動画でも社会批評めいたことを喋っているし書いているけど、僕はもともと社会に関心がないのでそれをハッキリ表明し、仕事だからやってるだけだと、正直にいっています。
僕にとって大切なのは僕の言葉でいう「仲間」。皆さんの言葉では家族とか親友とか恋人とかです。昔は社会を荒波に浮かぶ船や荒野のオアシスにたとえたけれど、今は社会自体が荒波あるいは荒野です。だから僕は「社会という荒野を仲間と生きろ」というのです。
今では、社会全体をどうするのかなどと考えるのは、その荒海や荒野をどうするかと考えるのと同じで、少なくとも短期的には徒労で、意味がありません。社会はなるようになると考える他ない。しかし、俺たちだけはなるようにならないぞ、っていう感じですね。
だから、ウヨ豚とか糞フェミみたいな「言葉の奴隷」や、不倫騒動で噴き上がる「法の奴隷」ような、「神経症的な埋め合せのためのポジション取りの損得勘定」を「損得を超えた共感的な力」よりも優先させるクズどもは、一人寂しく死ぬだろうなと思っています。

谷川 穂村さんは、1990年にデビューされてますよね。で、1994年はまさに劣化した時代であり、宮台さんがいってる「蝕の始まり」のときに本格的に活動されたりしてるじゃないですか。その時代に、たとえば穂村さんの作品に対する評価というか風当たりというか、そういうものを含めてあったのか聞いてみたいです。

穂村 当時、年上の人からは欲望に対して肯定的な感覚を批判されました。一方、今、年下の男性たちは、なんとなく冷ややかな感じがしますよね。なんでそんなに、そんなに……なんだろう、浮かれていられたんですかみたいな(笑) 結局、僕が最初に中澤さんの歌を、一冊かけてこれをやり続けるのか、なんでそんなに苦いんだろうって思ったことの裏返しみたいな感じですね。
そのあと、短歌の世界に限定していえば、後続の若い男性たちは中澤さんの路線なんですよ。非常に低体温で、システムに対して苦い。そして、恋愛に浮かれるような歌はまったく見ることができなくなった。この歌集の目の前の他者よりもシステム自体を意識する感覚に出会った時、僕は新しさを感じたけど、もっと下の世代の人はどう読むのか。異性ならどうか。そんなことも気になりますね。

宮台 おもしろいですねえ。

中澤系とはどんな人だったのか?

谷川 ここで中澤系さんについて、解説をしておきます。今日の主役になるべき中澤系さんは、もちろんここにはいらっしゃいません。2009年4月に副腎白質ジストロフィーという難病で永眠されました。
今回の新刻版の出版以降、この紀伊國屋新宿本店では、なんと100冊以上も、あの黒い本が売れております。で、今全国の書店でも売れ続けています。あの、発行部数は1000部ですね。そのうちもう900部がなくなってます。
すでに900部が読者の手元、もしくは書店の棚に置かれているという現状に、「歌集は売れないだろうなあ」と私は思ってた私は驚くばかりです。このような現状を天国の中澤さんは、どういうふうに見守っているのか、非常に気になるんですけども。
その中澤さんは、1970年に生まれて、早稲田大学第一文学部の哲学科を卒業して、そのあと社会人になってから短歌を作り始めた。で、1997年に未来短歌会に入会して、同年に「uta0001.txt」の二〇首で未来賞を受賞しました。実際に短歌を詠んでたのは、1997年から2001年までの正味4年間です。で、2002年から中澤さんは難病と闘うことになりました。
人文書の双風舎が歌集を出す気になった一つの理由は、もうお二人が語られてますけど、中澤さんの短歌には時代の気分が強く反映されているということと、あとは時にはユーモラス、時にはアイロニカルに、斜に構えた感じで表現をされていると。そこが非常に気に入りました。歌集など出す気は、まったくありませんでしたが、読んでみてこれはおもしろいなということで、出させていただくことにしました。
ここで、中澤さんの妹の瓈光さんに登場してもらいましょう。先ほどから、中澤さんの生きた時代はダークで、この本の色が黒で、なんかブラックな歌集という印象を受けるけれども、実際のお兄さんはいったいどんな方だったのでしょうか。
お兄さんは、明るい方だったのでしょうか、暗い方だったのでしょうか。

瓈光 暗くはないんです。ただ、明るくもない。

谷川 それはどういうことですか。

瓈光 それはですね、本のテキストにも書いたんですけども、口数が少ないのかといえばそうでもなく、飲み会みたいなところには絶対に参加して、お酒が入るとかなり饒舌になりました。自宅では、私もけっこういわれたらいい返すタイプなので、堂々巡りのわけのわからない議論のような会話のようなものをよくしていましたね。

谷川 女の子を家に連れてきたりとか、そういうことはなかったんですか?

瓈光 ないですねえ。

谷川 断言するんですか。

瓈光 はい(笑) えっと、女の人からの評判というのも変なんですけど、まあフェミニストを気取って……、気取ってとかいうと怒られちゃいますけど、まあフェミニストで。

谷川 中澤さんが?

瓈光 そうですね。女性に対しては紳士的に振る舞おうと思っていました。「優しい人ですね」っていう感じはあったんだと思います。

谷川 最近、中澤さんの部屋をきれいにされたっていうことですが、なにか出てきたものがあるとか?

瓈光 いわなきゃいけないですか。

谷川 いえるとこまで(笑)

瓈光 はい。実は、兄の部屋は、亡くなってからずっとほったらかしになってまして。別に手をつけたくないとか、そういう状況ではないのですが。
今回歌集を出すにあたって、片づけようということになりました。すると、大学ノートが見つかりました。すべてとってあったんです。ちょっと恥ずかしくなるような、書きなぐった心の叫びとか。草稿を練ったような歌まで、全部取ってありまして、綺麗に。
あと、本に載せる写真がほしいとのことで、写真も探したんですけど……。本人はあまり自分が写るのが好きではなかったようで……。

谷川 写真、少ないですよね。

瓈光 そうなんです。未来短歌会では写真を撮る係をしていたようで。岡井隆先生とか穂村さんの写真なんかもたくさん出てきました。
その中に美女がたくさん写ってまして、何人かの素敵な女性を狙ってツーショットで撮ってもらったような写真があったり。場を盛り上げたりっていうのは好きだったようで、飲み会に行ったら、積極的に盛り上げる係をしていたと岡井先生が書かれていますが、それはうなずけるんですね。

谷川 粋で陽気な方だった中澤さんの姿が浮き彫りになってきますね。

「内なる光」——人間関係に対する期待値の高さ——

谷川 宮台さん、あの、解説の中で、感想文の中で、内なる光っていうものに触れてますね。ここであの、読んでらっしゃらない方もいらっしゃると思うので、何が内なる光なのか、その内なる光はいったい私たちに何をもたらすのか、みたいなことをちょっと触れていただければと思うんですけども。中澤さんが放ったんですよね内なる光。

宮台 僕は若い人たちから、いつも元気ですねっていわれます。確かにいろんな意味でバリバリ現役です。「何が現役?」と思われる方もいるでしょうが、要は人間関係に対する期待値がとても高いのです。いまの若い人たちより何百倍も高いだろうと思います。
でも、社会に対する期待とは違います。僕の周りに限れば「皆で頑張れば——皆ってのは少数の仲間ですが——良き時空間を作れる」という確信があります。それを作っていこうという強い意欲もあります。そのためのノウハウも一生懸命蓄積してきました。
中澤さんが生きておられたら、やはり中澤さんも同じようにされたんじゃないかと思います。僕はそういう仲間を〈見えないコミュニティ〉と表現しています。そうした仲間をネットから見えないように作る動きが2010年代に入って大きくなりました。
それまでは、シェアハウスとか、歳の差カップルとか、何とかして濃密な関係性を作ろうというオープンな動きがありましたが、ネット炎上やチクリがあったりとノイズが目立つようになり、多くの人はクローズドなSNSを除いてネットから退却しました。
ネットをオープンにすると、「悪貨は良貨を駆逐する」で、ポジション取りと自己防衛の損得野郎のクズがプラットフォームを台無しにします。だからネットからは見えない場所に〈見えないコミュニティ〉を作るのです。それはニヒリズムとは正反対の動きです。
社会はどうにもならないと諦めることが確かに出発点ですが、〈見えないコミュニティ〉の動きは、限られたエネルギーをどう使うのかに関わる余儀なくなされた選択です。ならば、なぜ僕らは、単に生きるのではなく、〈見えないコミュニティ〉を作ろうと思うのか。
答えは「内なる光」です。18世紀半ばに活躍したラルフ・ワルド・エマソンの言葉です。彼は米国超越主義と呼ばれる系列の出発点に当たります。ニーチェに影響を与えたことでも知られます。実は彼はプラグマティズムの出発点なのですね。
プラグマティズムとは「認識」よりも「コミットメント」を、「真理」よりも「真理への動機付け」を、重視する伝統です。「内なる光」とはコミットメントや動機付けです。単なる動機づけじゃない。「損得勘定」ならぬ「内から湧く力」を意味するのですね。
初期ギリシャからキリスト教を経てエマソンに受け継がれた発想です。初期ギリシャは地中海対岸のヤハウェ信仰を「神の意に背くと災厄に見舞われるからと神に這いつくばるのか」と軽蔑します。世界はもともと不条理で、にも拘わらず前に進む営みを良しとしました。
福音書の「善きサマリヤ人の喩え」が初期ギリシャの影響だとされます。強盗にやられて路傍に倒れた人をラビ(ユダヤ教聖職者)もレビ人(ユダヤ教祭祀役)も見て見ぬフリをします。戒律にないからです。戒律に無関係に手を差し伸べたのが被差別民のサマリヤ人。
イエスは、戒律に書いてあるからと利他の振る舞いをする者をクズと見做し、戒律にあろうがなかろうが思わず利他の手を差し伸べる者を讃えます。そこでは「損得勘定」ゆえの利他と、「内から湧く力」つまり「内なる光」としての利他が、比べられています。
イエスが「あなたはどちらを隣人にしたいか」と訊くのが重大です。ここでは、人間が「損得勘定」で生きる者に感染することはあり得ないが、「内なる光」に促されて生きる者には感染するのだという端的な事実が指し示されています。それがエマソンの出発点。
だから、プラグマティズムは、「真理」の受け渡しより、「内なる光」の受け渡しを大切にします。知っているか否かよりも、実際に何かをなすか否かを、重視するのです。だからといって「実用主義」という訳語を当てるのはひどい誤訳で、何もわかっちゃいない。
学問的背景を喋りましたが、「損得勘定で生きる浅ましき者」と「内から湧き上がる力で前に進む立派な者」という対比は、学問とは無関係に本当は誰もが弁えているはずで、だから昔から繰り返し注目されてきた。それを強調したくて学問的背景を喋った次第です。
ナンパ師だった僕がいうと軽く聞こえるでしょうが、この『uta0001.txt』には、明らかに「内なる力」を感じます。単なる認識を超えた叫びがあるのです。むろん社会に対する絶望もあります。当たり前です。この社会に絶望しない輩は鈍感な頓馬に過ぎません。
でも中澤さんが単に絶望しているだけなら、先行者がいない中、これだけ同じトーンで歌を詠い続けることはあり得ません。彼は模倣者じゃないのです。だからもし彼が生きていたらどんな歌を詠むかなぁと思いします。おそらく同じような歌は詠まないはずです。
僕がそうでしたから。21世紀に入って程なく、絶望は相変わらずでも、昔のどんよりした感じからは完全に脱しました。中澤さんもたぶん脱されただろうと思うんです。となると、中澤さんがどんなふうに脱されただろうかということに、僕はすごく興味があります。

谷川 穂村さんは、中澤系が放つ内なる力というものに関してどうお考えでしょう。

穂村 この解説でお書きになってる内なる光という言葉のところに引用されてる短歌は、私の資料でいうと終わりから三首めの、次の歌なんですね。

こんなにも人が好きだよ くらがりに針のようなる光は射して

宮台さんはこの短歌を引用して、お書きになってます。これはまさに、人間関係に対する期待値そのものの歌ですよね。むしろ、目を疑うっていうか、この本の中で見ると「えっ?」っていうぐらい素直な歌です。人が好きだといってることも驚きなんだけど、それ以上にこの「だよ」って何だよっていうことで。
でもね、そう思って読んでみると「だよ」だらけなんですよ、このあたり。とても不思議なんだけど。「いや死だよ」とか「のみ込んでしまうべきだよ」って。誰にいってんだよっていうことで。こんなに孤独で、押し入れの中にいるようなムードの本なのに、呼びかけはひどく多いんです、文体上。
それは何か不思議な感じがしますね。ここまで社会システムに対して鋭敏に、いってみれば受難感覚を表明し、糾弾し、自分自身がどれくらいそれに毒されてるかをジャッジするような繊細な人が、他者への期待値はずいぶん手放しなんだなあっていう。
だから、それが宮台さんのおっしゃった見えないコミュニティの話とかにつながっていく。彼が生きてたらっていう話になっちゃうけれど。

質疑応答

谷川 もし今までのお話の中で、宮台さんや穂村さんに聞きたいことや尋ねたいことがありましたらどうぞ。

観客C 女性がどういうふうに読んでるかっていうのを、僕も聞きたかったんですけど。そのことはお二人にはわかりにくいと思うので。たとえば女流歌人とかだったら、今どういう傾向になってるかとか。中澤さんの歌集をどう受け取ってるとかって、知りたいところです。

穂村 わからないですけど。同じように若くして亡くなった笹井宏之さんっていう方がいて、作風が全く違うんですよ。たぶん女性に受けるだろうなと思われる作風なんですよね。
僕は、中澤さんの本は女性受けしないんじゃないかなって、なんか勝手に思い込んでいました。これが好きなのは、後続の、影響を受けた男子が多く、それも熱狂的に好きなんじゃないかと勝手に思ってた。
ただ僕がそう思ってるだけで、なんのデータもないので、ちょっと答えられません。この中に、女性歌人っているのかなあ。でも、女性歌人を代表することなんてできないもんなあ。

谷川 しっかりこの本を一回読まれて、短歌を書いている方で、素直な感想みたいなものをもし聞かせていただけたらと思います。個人的な感想よいし、女性を代表しなくてもかまわないんですけど。

中家菜津子 未来短歌会の中家といいます。すみません、ちょっと当てられると思ってなくて、びっくりしたんですけど。
男性と女性で受けとめ方が違うんじゃないかっていうことは、まったくないと思うんですよ。女性であっても、シンパシーはすごく感じますし、社会に対する憤り、いや憤りというか無力感みたいなものは、すごく感じています。女の子だから翼がある歌が好きっていうことはないとは思います。
私が初めて中澤系さんの歌を読んだのは、ツイッターのbotなんですね。かなりのフォロワー数がいて、短歌をやっている方だけじゃなく、いろんな方がそれをフォローしていらっしゃる。深夜に、この本にある一首でもいいんですけど、それが流れてきたときに液晶が光って。ほんとに刺さるんですね。
私は、翼のある系の歌を作ってしまうので、こういう歌は作れませんが、ほんとに生きててほしかったなって思います。この世界についての思いを、そして私たちの言葉を、もっと代弁していただきたかったなと感じています。

谷川 ありがとうございました。最後に、私から穂村さんに一つよろしいですか。

穂村 はい。

谷川 短歌をやってる方には大変失礼な物言いになってしまいますけれども、本の出し方にしても、作品の発表のしかたにしても、外から見ると短歌界みたいなものは、なんか閉鎖的かつ閉塞的に見えたりするんですよ。「短歌をやってる人同士ですべてが完結していればいいんじゃない?」みたいな、そういう雰囲気を感じるんです。申しわけないんですけれど。
だから私は今回の本に、宮台さんという短歌の外部の方を投入して、僭越ながら刺激できればなあって思ったわけなんです。そうすることによって読者層が広がったりしてくれたらいいんじゃないか、と思ったんですけども。
私には閉塞的閉鎖的になんとなく見える短歌界について、穂村さんはいったいどう思われるのか。もちろん穂村さん自身は、外に開かれている方だと私は思うんですけれども。短歌という業界というか組合みたいなものを考えてみると、ちょっと閉鎖的なんじゃないかなとは思うんです。いかがなものでしょうか。

穂村 私がよくする説明は、短歌の世界っていうのは、小説や漫画や映画の世界と、お茶やお花や踊りの世界の中間にあるっていういい方ですね。それは、先生がいて、つまり半分は習い事みたいなイメージってことです。
お茶やお花や踊りって、習い事でしょう。先生がいて、指導を受けて、それでだんだん偉くなってお免状をもらったりとか。ものによっては、段位や級みたいなものがあったりします。短歌には、短歌五段とかないけれども、事実上はなんかある種の階級みたいなものはりあって、事実上は師範代がいて、明らかに先生はいるわけなんですよね。これは結社っていうシステムの場合です。
それを支えているのは、文語体なんですよ。文語、つまり何とかなりけりとか。あれは使いこなせないじゃない、素人は最初から。だから、あれを学ぶというのが習い事性の大半を占めてるんですよ。俳句だったら季語を学ぶとか。
で、一応その学習的なニュアンスがそこで担保されてる。けれど、この歌集もそうだけど、そうじゃないじゃないですかもう、成分が。なりけりじゃない、少しはそういう言葉も入ってるけど。そうなると、短歌は徐々に小説や映画や漫画に近づいてるんですよ、いま。そうなったとき、圧倒的に弱い。小説や漫画や映画や音楽とかと比べれば、コンテンツとしての市場価値がまったくない。だから、ある意味で危険なんです。
外部の方から見れば閉鎖的だっておっしゃるけど、閉鎖的であることによってかろうじて守っていたものがいろいろあるわけなんですよね。でも、いまは誰にいわれるでもなく徐々にオープン化しつつあって。
一つの要因は、本を出すのにお金かかることです。普通は逆のイメージですよね。本を出したらお金もらえる。小説や漫画の世界では。でも、短歌や俳句では本を出すとお金かかる。それをみんななんとか他の仕事でやりくりして、出していた。だけど、ある年代以降の人は、それができない。その意味でも、システムを維持できなくなる。
だから、ものすごく弱い小説みたいなものに、だんだんなりつつある、っていうことなんです。オープンにはなりつつあるけど、そうなったとき、誰にも顧みられないジャンルになる可能性がある、ということじゃないですか。

谷川 厳しいですね。

穂村 厳しいです。

谷川 穂村さんは、そんな厳しい中でも短歌は詠み続けるという……。

穂村 そうですね。さっき宮台さんがおっしゃってたのに少し近いけど、そういうふうに全体を改めて考えて言語化すると、どんどん暗くなっちゃう。けれど、そこまで普段は考えてないですよね。改めて聞かれたからしゃべると、ほんとそうだなと思って、自分でしゃべってて暗くなるけど。
目先のことで手いっぱいなんで、こうやって呼ばれたから来て、しゃべる。それだけのことなんですよ。

谷川 はい。

宮台 あの……短歌を巡る小さなサークルは、まさに〈見えないコミュニティ〉そのものなんじゃないかな。メディアとしてのパワーがもともとそんなに強くないことが、そこではいい方向に機能して、〈見えないコミュニティ〉を存続させてくれているのだと思っています。
僕は、ノイズ・ミュージックと呼ばれる音楽──音楽を否定するので音楽かどうかあやしい──が好きで、もうすぐMerzbowというアーテイストとコラボCDを出しますけど、どんなに売れるノイズ・ミュージシャンでも、新譜が500枚売れればいいという世界です。
だからそれだけでご飯を食べることはできません。話をうかがっていると、短歌界隈とよく似ていて、ある感覚を共有していることを互いに明かし合った人が集っています。わからない人にわからせようとは思っていないという意味で、〈見えないコミュニティ〉です。
それはそれで合理的なのです。ネットでわっと盛り上がったら絶対に劣化します。短歌界隈もノイズ界隈も、感受性の劣化を徹底的に否定したい人々の集まりですから、これでいいのです。もちろん短歌やノイズ以外にも〈見えないコミュニティ〉があると思います。
これから「社会という荒野」に散らばる〈見えないコミュニティ〉がだんだん繋がっていくと思います。谷川さんも繋げようと僕を召喚したわけです。〈見えないコミュニティ〉同士が繫がらないと「社会という荒野」を生き延びるのはむずかしいと判断されてのことです。
インターネットは見える場所。〈見えないコミュニティ〉は見えない場所。ネットだけ見ていると社会は殺伐とした荒野に見える。そこだけ見ていればビジョンが暗くなり、人は殺伐として劣化する。でも〈見えないコミュニティ〉に棲まえれば、そうならずに済みます。
とすれば、これから先は何が起こるか明白です。見える場所にあるネットは劣化空間です。劣化空間では人々はますます劣化します。見える場所はどんどん崩れるでしょう。だからこそ〈見えないコミュニティ〉は確実に拡がるのです。実際にそうなっていますよね。
アダム・スミスは人々が他人の苦しみを自らの苦しみとする「同感能力」を持つ場合に限って市場が「神の見えざる手」を働かせるとしました。とすれば、人々が感情的に劣化して「同感能力」を失えば、市場が人格と社会を悪循環的に劣化させていくのは確実です。
だから「社会という荒野」を生き延びる戦略としての〈見えないコミュニティ〉なのです。でも〈見えないコミュニティ〉に入れない劣化厨も、システム作動の悪循環に巻き込まれただけで、彼らが悪いんじゃない。ならば一本釣り的な包摂を続ける必要があります。
僕は家族も恋人同士も〈見えないコミュニティ〉としての資格を持つと思っています。だから恋愛ワークショップや親業ワークショップを実践してきました。クソ社会の中で、クズな連中に巻き込まれず、互いがまともであり続けるための〈見えないコミュニティ〉です。

谷川 それは希望的観測なんですか?

宮台 希望的観測っていうか、現にもうそういうふうに動いてるのですよ。だから、僕らはここでこうしているんじゃありませんか。

谷川 最後に、見えないコミュニティについて、穂村さんはどう思われるかおうかがいしてもいいですか。

穂村 そうなるといいですよね。でも、この本の復刊に際して、短歌専門出版社っていっぱいあるわけだから、現にそこを選ばなかったっていうプロジェクトの人たちの動きは、けっして閉鎖的とはいえないわけですよね。

谷川 その通りです。

(おわり)

【編集後記】

この対談を実施してから、すでに約3年が過ぎました。対談からしばらくして、中澤系プロジェクトから対談の音声を起こしたテキストをいただいておりました。『中澤系歌集 uta0001.txt 新刻版』を刊行したのは、私がひとりでやっていた双風舎という出版社でした。売れ行きは順調で、ありがたいことに刷った分は完売しました。
とはいえ、重版する体力は残っていなかった同社は、2015年に破産してしまいました。それで、対談のテキストがいったん、宙に浮いてしまったのです。その後、私は皓星社という出版社に入り、ふたたび人文書の編集をやることになります。
ある日、中澤系さんの妹の瓈光さんから連絡がありました。兄の歌集をふたたび刊行したい、と。私が編集を担当した本なので、出したいのはやまやまです。とはいえ、会社の合意が得られるかどうか……。
皓星社は、福島泰樹さんの歌集を刊行したり、『歌誌月光』を発行するなど、たいへん短歌に理解の深い会社でした。同書を刊行する話は、すんなり認められます。一気に刊行の準備を進め、2018年2月22日の発売にいたりました。
そして、皓星社での発売を記念して、宙に浮いていた宮台さんと穂村さんの対談テキストを整え、公開しようということになりました。事情をお伝えしたところ、宮台さんにも穂村さんにも、すぐに対応していただきました。この場を借りて、おふたりに深く感謝いたします。
さらに、歌集の刊行から宣伝、トークセッションの企画、音声のテキスト起こしにいたるまでお世話になった中澤系プロジェクトにお礼もうしあげます。
短歌の歌集の刊行記念だというのに、短歌のプロフェッショナルは穂村さんだけで、対談の相手は社会学者の宮台さん、司会は短歌にくわしくない編集者という、不思議なトークセッションだったことをよく覚えています。
ひるがえって考えると、社会学者や短歌に門外漢の編集者をも惹きつける魅力が、中澤系さんの歌集にはある、といえるのかもしれません。
最後になりましたが、紀伊國屋書店新宿本店の2Fで、長期にわたって同書の双風舎版を面陳し、百冊単位で販売していただいた梅﨑実奈さんにお礼を。トークセッションでもお世話になりました。
では、皓星社の『中澤系歌集 uta0001.txt 新刻版』を、なにとぞよろしくお願いいたします。

(2018年2月27日 皓星社 谷川)

中澤系歌集 uta0001.txt