人物満洲

B5判・上製・全10巻・各巻平均600頁 
定価180,000円+税
ISBN4-7744-0269-9 C3300
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日本人物情報大系 第2回
満洲編
塚瀬 進 責任編集・解題/柳沢 遊 協力

最古の『満洲紳士録』(1907)や、吉林省档案館所蔵『満洲国官吏録』(1941・1942)といった稀覯書をはじめ、定番の
『満洲紳士録』(1937・1940・1943)まで、満洲在住日本人を知るツールを網羅。満洲を語るうえではずせない満鉄『社員録(職員録)』も希少な明治期のものを収録。


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1 「満洲編」の意味

 伝記が単行本となるような著名な人物ではなく、とりたてて世間の脚光や注目をうけることなく生涯を終えた人物の履歴を知ることは、思いのほか容易ではない。時代の古い平安時代や江戸時代の人物 だけでなく、わずか百年ほど前の日本人についてもこうした状況は同じである。市井に生きた人々の経歴を知るのは難しいという一般 的状況の他に、本編で扱う「満洲」で活躍した日本人(以下、在満日本人)の経歴について知ることは、以下の2点の理由により一層難しくなっている。

 第一に、在満日本人を総合的に統括する行政機関は存在しなかったことがある。満洲国以前に在満日本人が主に活動したのは関東州と満鉄付属地であったが、関東州は関東都督府(1919年に関東庁、1934年に関東局となる)により、満鉄付属地は満鉄により別 々に統括されていた。関東州、満鉄付属地以 外の地区は外務省の領事館が管轄した。在満日本人の管轄機関は居住地により異なっていたのである。

 第二に、在満日本人の異動は激しく、1カ所に長く生活する者は少なかった。関東州の官僚や満鉄の職員は転勤が多かっただけでなく、退職して他業に転ずる者も少なくなかった。商工業者も商売に適した場所を求め、転々と居を移した。

 つまり、在満日本人を統括する機関の不在や激しい異動が、網羅的な人名録を編集できる組織の不在以上に、人名録の編纂自体を無意味にしていたのである。

 かかる状況を踏まえ、本編では在満日本人の情報を網羅的に抽出できるよう、つぎのような配慮をした。まず、在満日本人社会が形成され、崩壊する日露戦争後から満洲国までの期間について、時期ごとに代表的な人名録を配した。その目的は、異動を繰り返す在満日本人の様相をとらえることにある。日露戦争後は、第11巻の『満洲紳士録 前編・後編』が、満洲国期については第13巻から15巻の『満洲紳士録』各版が核をなしている。これらの人名録は大部であるため各個人の記述はさほど多くはない。そのため、より詳細を語る人名録を収録することで、特定の人物については豊富な情報が得られるよう配慮した。

 在満日本人の基軸をなすのは言うまでもなく満鉄の社員である。そこで、満鉄の『社員録(職員録)』を2、3年おきに収録した。満鉄が毎年編集した『社員録(職員録)』は信頼性の高い人名録であり、在満日本人の動向を探るうえで貴重な資料である。関東都督府(関東庁、関東局)の職員については、内閣官報局が作成した『職員録』から該当部分を年ごとに抽出した資料集が刊行されている(『旧植民地人事総覧・関東州編』日本図書センター/1989年)ので、本編では除外した。満洲国期については、満洲国政府の『官吏録』を収録することで、政府機構にどれだけの日本人が存在したのか検索できるようにした。
 
 代表的な人名録と満鉄・満洲国政府の『社員録』『職員録』という二つを軸に、在満日本人の情報を得られるようにしたことが本編編集上の基調である。



2 各巻概説

1(通巻11)巻

 11巻には四つの人名録を収録した。奥谷貞次、藤村徳一編『満洲紳士録 前編』(1907年)『同 後編』(1908年)は、まとまった在満日本人の人名録としては最初のものであると考えられる。内容については小峰和夫氏がすでに分析しているので、詳細については小峰和夫「『満洲紳士録』への社会移動論的アプローチ」(『日本植民地研究』11号/1999年)を参照していただきたい。記述 内容については人物により長短あるが、無味乾燥的な経歴の羅列ではなく、その人物の人柄を彷彿させるタッチで描かれている。日露戦争
(1904〜1905年)直後の在満日本人の様子を知るのには基本となる人名録である。

 大連開業20年連合祝賀会が遼東新報社より刊行した『記念誌』(1924年)は、約80名の大連在住日本人の経歴を記している。記述が詳しく、明治末から大正年間にかけて活動した人物について、かなりの情報を含む。

 『支那在留邦人興信録』(1926年)の刊行理由は「編集趣旨」によると、日本国内では『日本人事興信録』や『日本商業興信録』などの人名録が作成され、主要人物の経歴を知ることができるのに対し、中国ではこうした人名録は存在しない。そこで、1921年(大正10年)9月から1年かけて材料 を収集し、本書を完成させたとある。中国全土に居住する日本人の人名録作成を目標にしていたようだが、採録された約1,600名中、約1,100名が満洲在住者である。本編では、大陸での移動を鑑み、満洲在住者の部分だけでなくすべてを収録した。本書の3年後に刊行された『満蒙日本人紳士録』 (12巻所収)の採録数は約3,200名なので、本書のカバーする範囲は『満蒙日本人紳士録』よりも 小さい。

 『最新 満洲国人名鑑』(1934年)は、1934年(昭和9年)4月時点での満洲国中央官庁、地方官庁に勤務する人物の経歴をまとめた人名録である。したがって、満洲国の官庁関係者以外の人物を検索するのには不向きだが、採録数約2,500名のうち、約800名の日本人が初期の満洲国政府にどのように関わったかを知る貴重な資料である。

2(通巻12)巻

 12巻には、大正期に活動した在満日本人を網羅する人名録2冊を収録した。『満洲紳士縉商録』(1927年)は、書名からでは在満日本人を網羅する人名録という印象を受けるが、実際には採録は関東州在住者に限られ、なかでも大連在住者が多い。奉天、長春在住の日本人検索には不向きではあるが、その記述は57字×12行=約680字を原則として、その情報は他の人名録より豊富である。最初に出生年月日、原籍を記し、ついで渡満理由、関東州での職業、現在の状況を軽妙に述べている。記述の年限は、1925年頃までで、おおむね大正末年までの様子を伝えている。大正年間において、関東州に在住した代表的な日本人の経歴を知るには、本書はきわめて有用である。国会図書館や東洋文庫に所蔵はなく、全国的にもきわめて稀少な人名録のひとつである。

 『満蒙日本人紳士録』(1929年)は、大連で最大の発行部数を誇った『満洲日報』を刊行していた満洲日報社が編集した人名録である。「発行の趣旨」によると、「満蒙に活躍する有識有産階級同胞」を網羅する内容をめざしたとあり、採録数も約3,200名に達している。最初に現在の職業、生年月日、家族について記し、ついで渡満年月、渡満後の状況、家族について述べている。記述量 は200から400字程度が多く、数十字と少ないものもある。採録人物の職業は、満鉄、関東庁関係者が多い。居住地について見ると、大連や旅順などの関東州が約600名に及び、半数を占めている。家族についての記述が多く、妻の出生地、出生年月、学歴、子供の出生年月、学歴を知ることができる。記述の年限は1929年までで、大正期に活躍した在満日本人を網羅するものと言えよう。

3(通巻13)巻
4(通巻14)巻
5(通巻15)巻
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 13巻、14巻、15巻には満蒙資料協会が作成した『満洲紳士録』の初版、第3版、第4版を収録した。『満洲紳士録』は東京都麻布に住所を置く満蒙資料協会が刊行した紳士録である。初版の序文によると、「在来類書欠陥を補ひ、前人未到の事業としての真面 目を発揮すべく」努力したとあり、大規模な人名録を作成しようとした気概がうかがえる。材料の収集にあたっては直接商店を訪問する一方で、関係官庁や満鉄に大きく依存した旨が記されており、官僚や満鉄関係者以外の地方の有力者についての遺漏を述べている。

 初版は1937年(昭和12年)7月の調査に基づき、採録人数は約8,500名に及ぶ。記述内容は現職、位 階勲等、公的関係、出生地、本籍、生年月日、続柄、学歴、経歴、功賞、趣味、信仰、家族、住所の順で、不明事項は記していない。初版に続いて1940年(昭和15年)7月に第2版が、同年12月に第3版が、1943年(昭和18年)12月に第4版が発行された。第2版以降は在満日本人のみならず「満洲国人」「蒙彊人」などをも対象にした結果 、採録人数が増えた。同年に刊行された第2版と第3版は、後版が前版の遺漏を補った改訂版であることから、本編では第2版は収録しなかった。

 第3版の採録人数は、実に約18,000人に達している。時局がら、第4版では約16,000人と減少し、数の上では第3版の優位 が際立つ。それゆえ第3版は、日本図書センターから1989年に『満洲人名辞典』の名で復刻され、その有用性を認知されているようにみえる。しかしながら、人名録の真価は採録人数もさることながら、掲載情報の質も疎かにはできない。

 たとえば、満鉄を経て国際運輸会社に勤務した「上杉栄」という人物は、初版では、明治41年5月仲田銀行に奉職。大正2年10月満鉄入社、撫順駅、鉄領駅勤務、吉林倉庫金融会社に入社。ついで吉林貿易会社支配人として同社の委託経営にあたる。昭和2年10月国際運輸入社、爾来吉林支店営業係主任、四平街支店長代理、本社附業課倉庫係主任に歴勤。12年3月現職(国際運輸附業課長代理兼倉庫係主任事務取扱)に就く。とある。ところが第3版では、仲田銀行、満鉄撫順駅、鉄領駅、吉林倉庫金融会社、吉林貿易会社支配人等に歴勤。昭和2年10月国際入社、吉林支店営業係主任、四平街支店長代理、本社附業課倉庫係主任等を経て現職に就く。となっている。満鉄入社の年月が省略されたり、現職の「国際運輸附業課長代理兼倉庫係主任事務取扱」が記されていない。第4版では、第3版の記述をそのまま踏襲し、最後に「十六年十二月現職に就く」と、年月が加えられている。写 真は初版には掲載されているが、第3版、第4版にはみられない。

 この記述比較から、第2版以降「満洲国人」をも採録したことから増えた分記述が簡略化したこと、第3版では刊行年限の1940年以降の異動については分からない、という結果 がみてとれる。第2版以降の経歴の簡略化が支障のない範囲で行われていればよいが、重要な情報が略されている場合もあるようだ。初版、第3版、第4版のすべてに掲載されている安宅彌吉という人物をみてみよう。初版では経歴の項、支那南洋及欧米間の輸出入貿易を開始し、大正8年11月株式会社安宅商会を起し現に社長たる外、昭和11年12月に満鉄監事に就任とあり、採録理由が昭和11年の満鉄監事就任にあることが想像できる。ところが第3版では、その経歴は、支那南洋及欧米間の輸出入貿易を営み、大正8年11月株式会社安宅商会を創立す。と簡略化され、この人物の採録理由に思い当たるものがなくなってしまう。肩書きの項を見ると「南満洲鉄道監事」とあるので、満鉄関係者ゆえに採録されたことがわかるが、その就任の日時は省略されている。第4版は第3版と同1の記述である。

 つまり第3版を利用する際には、採録人物が増えたため初版に掲載された人物については記述が簡略化されていることを踏まえる必要がある。また掲載人物の異動も多く、第3版では検索できなくても第4版には採録されている人物もいる。したがって、『満洲紳士録』の活用にあたっては初版、第3版、第4版の比較検討が不可欠なため、これらすべてを本編では収録することにした。

6(通巻16)巻
7(通巻17)巻


 16巻、17巻には満鉄の『社員録』(『職員録』)を収録した。1907年(明治40年)4月から営業をはじめた満鉄は、日本による「満洲経営」の中核的役割を果 たし、数多くの日本人が勤務していた。満鉄は満鉄付属地の教育、衛生に関する事柄、撫順炭坑の経営、満洲事情の調査など、鉄道業務以外の活動もしていた。満鉄付属地にあった学校の教師やホテルの従業員も満鉄の社員であった。

 満鉄で働いていた日本人の名前は、『社員録』により知ることができる。確認されている最初の『社員録』は、1909年(明治42年)に刊行されたものである。1925年(大正14年)に『職員録』と改称され、最後に刊行されたのは1940年(昭和15年)だと考えられる。満鉄の『社員録』は満鉄勤務者の姿を知るうえでの基本文献でありながら、日本国内で系統的に所蔵する図書館はない。本編はアジア経済研究所が所蔵する、アメリカ議会図書館版マイクロフィルムをベースにしている。

 本編では満鉄で働いていたた日本人の異動状況を知ることができるよう、最初の1909年版から最後の1940年版の期間にかけて、2〜3年ごとに収録した。収録した年度は、1909年、1913年、1915年、1918年、1921年、1923年、1926年、1929年、1931年、1934年、1937年、1940年の合計12年分である。

  満洲国期になると、満鉄は満洲国政府と国有鉄道委託経営契約を締結し、その事業範囲を広げたことから社員数も急激に増えたため、『職員録』の頁数も増加した。最後の1940年版は、総頁数は840頁余りになっている。

 満鉄の『社員録』(『職員録』)は、どういう名前の日本人がどの部署にいたのかの記述で、その人物の経歴などについては記していない。したがって、人名録に比べて情報量 は劣る。しかしながら、『職員録』に記載されている年度においては、その人物はまちがいなく満鉄に勤務していたことを確認できる。こうした信憑性の高い資料は他にはないので、本編では2〜3年ごとに収録した。

8(通巻18)巻

 18巻には満洲国政府関係者に関する『職員録』を収録した。多田辰應著『昭和九年版 満洲官民職員録』
(1934年)は、満洲国政府、関東庁、満鉄、鉄路総局、満洲電信電話会社、満洲電気会社、満洲国参事官の主要役職者についてまとめたものである。興味深いのは、人名しか記していないものが多いが、註として略歴が掲載されている人物もある点である。日本人だけでなく中国人のほうが人数的には多いが、複数期間をカバーしている点、略歴が付されている人物もあるという二つの特長を評価して、本編では収録した。

 満洲国国務院総務庁人事処が編集した『満洲国官吏録』は満洲国の政府機関に勤務する人物を網羅した
『職員録』である。刊行は不定期のようで、年間1冊の割合で刊行されたわけではないようである。アジア経済研究所編『旧植民地関係機関刊行物総合目録/満洲国・関東州編』(1975年)によると、確認されている最後の『満洲国官吏録』は康徳8年(1941年)4月1日現在(天理大学所蔵とある)のものとしている。本編では、日本では所蔵の確認されていない、康徳8年(1941年)11月1日現在の『官吏録』と、康徳9年
(1942年)11月末日現在の『官吏録』を収録した。原本はアジア経済研究所が所有する、吉林省档案館作成のマイクロフィルムである。

 『満洲紳士録』を刊行していた満蒙資料協会は、『満華職員録』(1942年)という『職員録』も刊行していた。この『職員録』は満洲国の政府関係者だけでなく、満洲国の主要会社、主要団体の役員について、その出生年、出生地、学歴、入社年などを記している。1940年代において、これだけ網羅的な『職員録』は貴重なため、本編では収録することにした。なお、大陸での異動を考え、中国本土や「蒙彊政権」の状況について述べた部分も省略せずに収録した。

9(通巻19)巻

 19巻では、西孟利(創生)著『満洲芸術壇の人々』(1929年)を収録した。この人名録は、在満日本人のなかで芸術活動をしていた約1,900名の経歴をあつめたものである。「自序」によると、満洲芸術は未だ幼稚なレベルにあるとはいえ、「満洲芸術壇として二十年の文化過程」を記述し、「来るべき満洲芸術壇への第一歩」にするとある。各自の経歴は比較的詳しく、満洲で芸術活動を行ううえでの苦しみやよろこびについても記している。満洲国成立以前の1929年(昭和4年)に、このような人名録が編纂されていたことは重要だと考え、本編では収録した。
 この他に、満蒙文化協会(満洲文化協会)の『会員名簿』のうち大正15年版と昭和12年版を収録した。

10(通巻20)巻

 20巻には網羅的な人名録ではなく、特徴のある人名録を収録した。一つのトピックにもとづいて編集された人名録や、採録数が少なくても経歴についてまとまって記述している人名録を収録した。『満洲建国烈士遺芳録』は、満洲国の官吏や軍人として勤務するなかで殉職した日本人の経歴をあつめた人名録である。満洲事変に際して戦死した人だけでなく、治安維持や地方行政を担当したことから殉職した日本人の経歴も採録している。
 佐々木泰治著『満洲朝鮮に於ける帝国之実業成功者列伝』(1914年)の採録数は合計53名、そのうち在満日本人は36名にすぎないが、一人あたりの記述が詳しい。「自序」によると、1913年(大正2年)7月から翌年3月にかけて一人一人と面 談を行った結果をもとに記述したとある。直接ヒヤリングを行い、各自の列伝をまとめた人名録は多くはないので、本編ではその稀少性に鑑みて収録した。
 伊藤武一郎著『満洲十年史』(1916年)の付録「成功せる事業と人物」の採録数は218名であるが、詳しく記述されている人物も少なくない。情報が豊富である点から、本編では収録した。
 菊池秋四郎、中島一郎共著『奉天二十年史』(1926年)は、日露戦争後、奉天に居住した日本人の動向について述べた著作である。そのなかの「奉天草分の人々」、「事業と活躍の人々」は奉天在住者の経歴について述べている。記述に長短はあるが、大正期の奉天居住者について詳しく述べていることから、本編では収録した。
 野田凉著『満洲建国と奉天省に活躍する主要人物』(1933年)は、満洲国建国に際して奉天省下ではどのような人物が、いかなる役割を果 たしたのかを述べている。そのなかの「奉天省に活躍する主要人物」は合計80名の経歴を採録している。日本人は36名であるが、経歴に関する詳しい記述があるので本編では収録した。
 山田浩通編『満洲寿帖』(1928年)は、在満日本人のなかで80歳以上の高齢者148名の経歴を集めたものである。在満年数をみる限り子供や孫の渡満に同行、もしくは後から身を寄せたらしく、決して満洲生活が長かったわけではないようである。とはいえ、「80歳以上の高齢者」という基準から編集された特徴のある人名録であり、渡満の主役である子供や孫の記述がみられることから本編では収録した。


 本編の編集に際し、柳沢遊 慶応大学経済学部教授から貴重な資料の提供を受けた。末筆ながら謝意を表したい。
(つかせ・すすむ)
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