『斎藤茂吉歌稿と太宰治原稿』
椿 紅子

 椿實は自著の原稿や掲載本を比較的良く保管していたが、妻に先立たれた1990年代後半には種々の整理事が杜撰になり、書誌的にも空白が残されている。
 創元ライブラリ版中井英夫全集8「彼方より」(1998年4月24日)の為に執筆したらしいことは、創元社編集担当者からの「さっと書いて速くお送りください」という趣旨のメモが残っていて判明したものの、掲載された書籍自体は根津の家では見つからなかった。後から調べてみると、この版の解説は中井と高師附属小学校から府立高校まで同級生だった鶴見俊輔が書いておられ、椿實は付録5として巻末に「メーゾン・ベルビウ地帯のころ」(付録のpp.1-3)を著している[同タイトルは他でも異稿に使用]。その中で彼等の新思潮が十四次なのは「中井が十三次のところを縁起をかついてトバしたからで、」と述べているのが興味深い記述だが、この数字には混乱が多く正確な描写 ではないだろう。
 この巻に収録された中井の日記には椿實との交友が度々記述されているが、中で最も私の興味を引いたのは、昭和二十三年八月九日分の末尾(創元ライブラリ版p.668)である:

 椿へ、太宰の「朝」、五百円で売る。《半ペラで二十数枚の生原稿。これはのちに斎藤茂吉の歌稿と引替えに返してもらい、十年後くらいか、戦後数度めの窮乏のとき、古本屋へ一万円で売った。と、もう翌月の古書店に美しく装幀され、五万円の値がついて出ていた。》

 この日付(昭和二十三年八月九日)は根津の反故の中に残されていた「極書」中井英夫署名の日付と合致する(本書の書誌、ハードコピーのp.21参照)。「本原稿ハ第十四次新思潮創刊号ノ為寄稿セラレタルノモニシテ昭和二十二年一月二十八日依頼二月二十六日渡サレタル太宰治氏直筆ノモノナリ 茲ニコレヲ証明ス」とあるのは売却保証書のようなものだろうか。更にこの日付は太宰治入水の2ヶ月少し後というタイミングであり、かつ作品のモデルは心中相手の山崎富栄なので商品価値が高いと思ったのだろうか。なお、前年二月二十六日に原稿を太宰宅に取りに行き、新思潮の人が来たら渡してくれって原稿を送ってきてあります、と留守番の人から「朝」を渡された経緯も日記にあるし(創元ライブラリ版p.444)、中井以外の関係者も足を運んだらしい。

 中井の但し書にある、椿から太宰の原稿をとり返すのと引替えにした、という斎藤茂吉の歌稿は、根津の家に額に入れ掛けてあった物かも知れない(確証はない)。目立つ所に有ったので早い時期に近代文学館に寄贈してしまったが、その受領目録によれば内容は以下の通 り:

 斎藤茂吉 「冴えかへる」歌稿 400字詰原稿用紙 2枚 墨書 『つきかげ』(岩浪書店 昭和29年2月)収録の「冴えかへる」(昭和24年) 8首中の7首(最終歌欠)

 これが中井が関係していた短歌雑誌への原稿だったのかどうか、は今後調査してみなければ分らない。太宰原稿の他にも椿實の手に渡ったものがあった可能性もある。出版された中井の日記は本人が編集しており全文ではないからだ。ここで当時の状況を振り返れば、中井は母・家・本を失い、あまつさえ大変な窮乏にあった。対照的に椿は息子の文学仲間と三人で話し込むような母、戦災を免れた家や家財、本を持ち、幼時からの我儘な坊ちゃんそのままの生活。その家は中井にとっては一種の桃源郷・オアシスであって、屈折した反応の対象にもなっていたのではないだろうか。

 当時、椿家は医療機器製造販売業を営んで繁盛していた。内径まで研磨したペニシリン用の太い針が大きなブームになり、實も大学の制帽姿で乱立する製薬会社、化学会社をセールスして回っていた。昭和23年頃設立の「日本注射針工業会」事務所が池之端の家の一角に設定され、實の父荘三は副理事長を勤めていた。多くの資材が統制で、配給申請や製造登録など事務が多かった。家風は下町らしく雑駁ではあるが、全員が芝居・美術・西洋音楽等の趣味を持つ町屋文化的雰囲気があった。赤門に学ぶ長男の文化的活動には非常に寛容で、物心面 の援助を惜しまなかった様子である。その頃を活写した書簡を茨城県古河市にお住いの中澤榮一さんという大正12年生れの方から頂き、「實さんとそのお友達」は家族だけでなく、使用人や出入りの人々に至るまでの自慢の話題だったことを窺い知ることが出来た。椿荘三とは上野でイタリア映画『苦い米』を観たそうである。 [ちなみに池之端の家屋は築77年程の風雪に耐えて現存する]。

 この背景を踏まえて皮肉なのは、戦争さえ無ければ環境の差異が与える中井英夫/椿實の関係は逆になっていたかも知れないと筆者には思えることだ。本文にも書いたように椿實は博物少年で文学に傾倒したのはむしろ遅く、数学・物理が大苦手でなければ理科に進んだとしても不思議はなかった。椿にとっては、中井に関し父君が小石川植物園長・占領下のジャワ・ボイテンゾルグ植物園長・科学博物館長を歴任した中井猛之進である事が最大の関心事だったらしいし、それは晩年の中井観に至るまで変わることのないエレメントであった。勝手な想像をするのを許されるなら、高名な学者の家系、閑静な居宅、海外産の標本などが椿にとっての中井家の吸引力となっていた可能性もあるのではないだろうか。

(2003年7月11日)