私の晩夏――佐賀章生へのオマージュ
椿紅子

 旧満州ハルビン*でのひとときを描いた「晩夏」という短編が手元にある(1)。植民地文学の系統があればそれに入るのかもしれない。向日葵、ダリヤ、コルク樫など植物の季節感が本邦とは異なり、向日葵が「たおやかで弱々しい」のがまず印象的だ。大学の研究室へ通 う木戸が知人とひとときの交流をする様子が淡々と描かれる。固有名詞にはロシア語と中国語が交じり合い、英語とロシア語をチャンポンに使う隣家の夫妻は南仏の生まれで、木戸がフランス語を少し話せることが分り大層喜ぶ。木戸はキタヤスカヤ街に出る鈴蘭売りの白系露人の娘に憧憬に似た感情を持つこともあるが、大学の教授令嬢である春子には少し圧倒されている。春子は物おじせずにピチピチして、探検やヨットに日を送っており、岸辺の散歩道で偶然に会った木戸を「学校を休んで何を見ているのよ」と夕陽見物に誘う。隣家の夫妻と一緒になってヨットクラブで会食の後、夫人はシューベルトの歌曲を歌って聴かせる。微妙な展開は夫妻が若い二人を許婚同士と思い込むところで、春子はとっさに気詰りを克服して話を合わせるので、木戸は「西洋教育を受けた日本人の複雑な心理」に目をみはらされる。
  全体が「何となく美しい気分にひたっている」光景であり、題名どおりに残る夏を惜しむ感情が流れている。「晩夏という青春の爛熟期の気分を背景としたなつかしい」心象なのだが、結尾の数行にはこうしたことは何時かは認められなくなる、と極めて暗示的に書かれている。

 この小説の前書きによれば執筆は昭和十九年四月の頃という。著者、佐賀章生は大正十二年十二月十二日ハルピン生れ、府立十中を経て静岡高等学校文科丙類より、文科出身学生にも特例として兵役延期の措置が取られていた長崎医科大学に進学し、昭和二十年八月原子爆弾により没した。作品は四篇を残し後は焼失した。静岡高校入学時に同級だった吉行淳之介とは特に親しく、吉行は自身が文学の道に進むきっかけとなった佐賀と(もう一人の友人の)久保道也につき、その文才への絶賛を折に触れ書き残している(2)

  私が慣れない仕事に追われていた2004年夏、夕刻からの会議の前に外出するには余りに厳しい暑気が渦巻くある昼間に電話が鳴り、くぐもった声で「お父さんの原稿がありますので取りに来て下さい」とのこと、亡父の旧制中学の同級生で後には吉行淳之介らと一緒に『葦』の同人だったK氏だった。葬儀には参列して下さったが、その後身体を悪くされたと人づてに聞いていた。旧制静岡高校出身者が中心の『葦』に父が加わったキッカケになった方あり、一度はお話を伺いたいと思っていたので心が躍った。指定の7月25日に道順の葉書を頼りに子供の頃通 った林町あたりの道筋を懐かしがりつつ辿った。原稿は『新思潮(第14次)』第3号(昭和22年12月)に掲載された「あるプシケエの肖像」で、「あるプシケエの物語」を消して修正してあるタイトルを初め、大きな推敲の痕跡が見られる興味深いものだ。戦争直後の粗悪な紙質の原稿用紙の30枚をきれいに保存していて下さったのは大層有難く、雑誌掲載の当時の原稿は他に残っていないので嬉しかった。
  K氏は、大手出版社を退職以降のライフワークとされた木工と絵の展覧会に父がフラリと現われたのが幾星霜後の再会でそれが結局最後になったこと、来訪者名簿に父は長野県茅野市の住所を書いたこと、などをポツポツと話された。『葦』創刊から三号、ポスターなども保管しておられ、自身の書かれた家族の肖像など見せて頂くうち、直感的に(少なくとも外に現われていた)父の特性とは相当に掛け離れた真摯な考え方をなさる方であろうと感じた。第二次世界大戦中の旧制高校生のあり方には特に興味があったが、「静岡高校は反戦気風の強い学校で、自分はそれに入り込めずに悩み、また敗戦への対処にも苦しみました。」という趣旨のことをおっしゃったのが印象的だった。お身体に配慮して日が高いうちに失礼し、帰宅すると見知らぬ 方からのメールが届いた。

 それはIさんという女性からで、「佐賀章生という人物について興味があると話していたところ、友人が椿さんのHPを教えてくれました。佐賀章生は私の祖父の弟、つまり大叔父に当る人でノ.名前は聞き知っていましたが作品を見たことがないのでノ.」とあり『葦』に深く関わる方の遺族からのものだった。7月24日の吉行淳之介十周忌の直後に集中してこの同人雑誌関連の方々から連絡が入るのも何かの縁であろうかと思い、Iさんとお会いする前に静岡高校関連を少し調査してみようかと考えたのだった。Kさんにも直ぐに連絡したが、「私は佐賀さんのことは知らなかったのです。」という反応が不思議だった。同級生と思ったが、戦時で入学・卒業時期が不規則な状況であり、回生は違ったらしいが、少人数の全寮の学校で知らないことがあるのだろうか。

 静岡県立図書館は草薙の丘の上に美術館と並んでおり、市立図書館は旧制高校の在った敷地に建てられている。また、卒業生の写 真等は現在の静岡大学文理学部が引き継ぎ保管していらしいことも判明した。同窓会報と並び『地のさざめごと』の情報が眼を引く。これはIさんが古書店で購入されたという旧制静岡高等学校戦没者遺稿集でタイトルは寮歌の歌詞だが、どうやら関連して訴訟が起きたらしい。簡単に言えば、当初は関係者による出版だった遺稿集が評判を呼び、大手出版社から再発行される過程で内容に関する食い違いがあったので出版を差し止める云々が争点らしく、Iさんが入手したのはこの新版の模様だ。何故なら旧版には佐賀章生の「晩夏」は書簡5通 と共に採録されているからだ。新版は1968年刊行で詳細に見れば「晩夏」を不掲載にした、と表記しているが理由の説明は無く、書簡の一部も掲載しなかった断りは無い。訴訟は昭和50年代になって和解したが、同窓生を少なからず疲弊させ、掲載作品の内容等は省みられなかったことが『龍爪(同窓会報)』から読み取れる。原告側弁護士のO氏も『葦』同人だった。K氏の述懐と合わせ、戦時に青春を送った方々や家族の様々の思いが交錯するであろう経緯を深く追うのは止めて、私よりは遥かに若いと思われるIさんのために、佐賀章生の作品を読み解くことにした。

 冒頭に描写した「晩夏」はコスモポリタンな色合いの濃い小説で、昭和21年夏の『葦』第二号に採録された。『葦』第一号には「C寺院の夜」が入っている(3)。 後者は心理描写が多くすぐには設定を読み取れないがC寺院はハルビンの中央寺院、聖ニコライ教会かもしれない。著者はカトリックを通 じてギリシャ正教にも興味があったのだろう。偶然手にした本に写真を見つけたが(4)、 タマネギ形ではない直線的な尖塔を持つこの教会はロータリーの中央にあり文化大革命で破壊されたらしい。交通 量が多い場所のようで小説の静寂とは合致せず、あるいは別の場所かもしれない。

 焼け跡から持ち出されて四篇残ったという作品中、一作は三幕喜劇の『葦』で残りがハルビンを舞台とする三部作だったように推測される。夜と昼から夕という三部作だったのかもしれない。旧制静岡高校の歴史を少しだけ読んで分ったのは、同校は最後の共産党組織があったことで知られるように反体制の気運が強く、それ故に軍政からは非常に厳しく扱われ警官が学生の様子を探ったり連行したことも多かったらしいことだ。また、昭和19年4月入学からそれまで自治だった寮生活が「修練部」に統括され、1年生が全寮で2、3年生は外に出された。悪影響を避けるために、1年生は上級生と会ったり話したりするのを禁じられ、寮歌を習うこともなかった。勤労動員先の工場で初めて同級生と親しく口をきく、という状況だったらしい。つまり学生の間は分断されていて、それがK氏の不思議なコメントの背景だったのだろう。まさに、このような時期に「晩夏」を書いた佐賀は、故郷ハルビンへの想いと相まって異なる文化の混在する都市、長崎に強く惹かれたことだろう。長崎へ行った要因は徴兵延期だけではなかったのではないか、そして悲運の前にその町の空気に浸る時を幾分か持てたのではないか。もしそうであったのなら、その足跡を辿ってみた私も少し救われるような気がしてきている。 2004/12/16 2005/01/18Rev *本来の発音は「ハルピン」と聞こえ、戦前の日本人はそう呼んでいたが、中国語の有声音・無声音の区別 に従ったアルファベット表記に引きずられて、現在の日本では「ハルビン」と呼ぶのが主流になっている。

2004/12/16
2005/01/18Rev
*本来の発音は「ハルピン」と聞こえ、戦前の日本人はそう呼んでいたが、中国語の有声音・無声音の区別 に従ったアルファベット表記に引きずられて、現在の日本では「ハルビン」と呼ぶのが主流になっている。
(1)同人雑誌『葦』第二号 (七曜会同人1946.7.1.) pp.15-25
(2) 吉行文枝夫人の「淳之介の背中」(新宿書房 2004.6.16) にも夫妻共通の大切な友人として登場する
(3) 同人雑誌『葦』第一号 (東京帝大七曜会同人 1946.3.25) pp.26-31
(4) 越澤明「哈爾浜(ハルピン)の都市計画」筑摩学芸文庫 (筑摩書房 2004.6.9) p.118