2002年3月25日(月)

初音。

『ハンセン病文学全集』を私自身が、何に変えても作り上げたいと思った
著者の一人に、香山末子という詩人がいる。
在日韓国人で、出産の後、ハンセン病に発病した。
敗戦後まもなく草津の楽泉園に入園する。
香山さんは、小さな子供を残し後ろ髪を引かれる思いで、入所した。

  「ため息」
 大きなため息
 大粒の涙
 その中で私は腐って
 大きいため息は親ゆずり
 癩病がほんとに邪魔になって
 後は何もない胸の中
 今はため息も大粒の涙もどこにない
 子供には爆弾で死んだことになっている私
 八月十五日がくると
 年一つ年一つ三十六年数えている
 長崎の原子爆弾で死んだ人拝んでいる
 坊さんの声も賑やか
 鐘の音もがーんがーんと
 永く響いてテレビの箱に
 燃えたまった線香の煙がいっぱい
 初子の年を数えている胸がいっぱい
 今年三十九歳、三つで別れて
 三十六年を迎えた
 八月十五日になると
 その娘に気持ちが追いつめられる
 死んだわたし

        『鶯の啼く地獄谷』(香山末子著 1991・7・7皓星社)

香山さんは盲人だ。いつまでも三歳で別れたおかっぱ頭の娘の面影だけがある。
 背中の子供のぬくもりが
 心に響いてきます
 私の生命です
香山さんは自身の生命と引き換えにしても、こどもたちを守りたかった。
何から守りたかったんだ。ねえ香山さん。

それから50数年ぶりに、おいてきた娘に出会う。
それもハンセン病療養所で。
 
「母のこと」
 苦しい日々が続きました。一人になると電話のダイヤルに手は行くので
すが最後まで回すには長い時間がかかりました。母も電話のむこうで息を
殺して待っているのではないか・…、今思えばそんな日々が続きました。
私が療養所にいたことは母にとっても寝耳に水で、ショックは大きく
「今ごろは子供や孫に囲まれているとばかり思っていたのに・…今日まで
それを支えに生きたきたのに・・…」ようやくかけた電話の向こうで本当
に母の叫びは悲痛でした。そのとき、わたしの数倍も数十倍も苦しんで
いる母の気持ちがいたいほどわかりました。
                 「納骨のときのあいさつ文から」


香山さんは、会いたくても会えない幼い娘を愛し続けた。
療養所で出会ってしまったことで、「胸が張り裂ける」思いの香山さん。
そして、娘さんは今「胸に大きなかたまり」を感じそれを抱え生きている。

「蝶々」
 動けないわたし
 死んだらせめて
 二つの羽でフワフワー
 飛んでとんで
 子供から
 また子供へと
 おかっぱの頭の
 あんちゃんの坊主頭と
 撫ぜて飛び廻りたい
 蝶々になって

           『青いめがね』(香山末子著 1995・5・5皓星社)


香山さん切ないよ。

3月20日、光明園に向かう。
香山さんの娘さんに会うために。
娘さんは香山さんの詩集を作りたいとおっしゃる。

 「迷子」
 今日は迷わずに行かなくては
 しっかり頭の中に詩話会の道順のみこんで
 出かけたのに いつのまにか
 集会所を通りこして
 地獄谷ちかくに来たらしい

 汗がどんどん流れる
 迷った道は足が早い
 これ以上行ってはだめと

 言い聞かせながら
 鶯の声に引きずられている
 ほんとうに地獄谷かな

 怖い谷がいっぺんに
 鶯の谷に変わり
 わたしは啼声の上に立っている。

      『鶯の啼く地獄谷』(香山末子・1991・7・7皓星社)
註)栗生楽泉園にある「地獄谷」は昔、園内の患者の残骨をこの谷の下に投
げ捨てた。

私と娘さんが、光明園の海の中に浮かんでいるような島の中を、新しい図
書館に向かった。
道すがら、初音を聞いた。
暖かい日差しの中で、まだまだたどたどしい鶯の声。
私達はお互いに顔を見合い、鶯の鳴き声に聞きいった。