皓星社(こうせいしゃ)図書出版とデータベース

むかしばなし 藤巻修一

皓星社の創業は1979年でそろそろ社歴も40年になり、世代交代も現実のものとなっている。それで、少し昔話をしてみたい。

 

僕がこの業界に関係したのは、村松武司という人の知遇を受けたことによる。村松は朝鮮植民者の三代目として「京城」に生まれ敗戦で引き上げてきた人で、戦後詩の出発点である「純粋詩」や「造形文学」の同人の詩人。小山書店を経て、その頃、虎ノ門にあったダイヤモンド社で『数理科学』という雑誌の編集をしていた。小山書店といっても、知る人は少ないかもしれないが「チャタレイ夫人の恋人」の版元といえば頷く人もいるかも知れない。村松の紹介で昼間は小山久二郎氏のもとで働き、夜は太宰治の従姉弟という夫人の手料理に釣られて小山書店の回想の聞き書きなどしていた。
「面白くないことがあったら飲みにおいで」という村松に甘え、ついて歩くうちに彼の親友の山崎一夫、通称山さんを知った。山さんはいわゆる特価本屋(ゾッキ屋)だった。ゾッキの語源には諸説あるが、テキ屋の隠語で月遅れの雜誌を「おそつき」と言い、頭が取れて「そつき、ぞっき」となったというのが小生の支持する説である。その昔、返品の雑誌はバラして青森あたりに持って行ってりんごの袋かけなどに使われていたのを、博文館に出入りの紙屑屋の坂東恭吾という若い衆が、月遅れの雑誌をばらさず安く売ることを思いついてテキ屋に流した。テキ屋がポンポン蒸気で売れば「ウキバイ」、列車の中で売れば「ハコバイ」といった。続いて興った円本時代は、大量生産大量販売は当然大量返品となるからその処分がビジネスチャンスになった。満鉄と組んで朝鮮満州まで円本の売れ残りを捌いて巨利を得たという話だが、現代ではそううまい商売ではないらしい。
出版社は今日手形を落とすのにどうしても、あと何十万か足りないというとき山さんのところに在庫を持ち込む、すると何掛けかでその日のうちに現金で買い取ってくれるのである。出版社はその金を持って銀行に駆け込むのである。在庫が古書市場に不自然に溢れるから「危ないのでは」という噂が立つリスクがあるがそんな事を言っている場合ではない時があるのだ。業界に入るに先立って、特価本業界を知ったことはいいのか悪いのかわからない。
学生時代、飲みに行きたいが金がないときには、専門書を古書店に持ち込むのだが、ブックオフ以前は相場というものがあって、当時は新刊ならだいたい定価の4割で買ってくれた。しかし、良書を出版すると自他ともに認めるM社の本だけは3割にしかならなかったのが不思議だった。この業界に入ってかつてM社の営業部長だったS社のOさんが「あれは俺が新刊が出ると同時に山さんのところに持ち込んで現金を作っていたのだ」というのを聞いて謎が解けた。M社の本は発売と同時に古書業界では供給過剰になっていたのだ。
やはり学生時代、先輩に連れられて上野に飲みに行ったとき、先輩が天神下の岩崎邸を覗き込んで、ここでキャノン機関に鹿地亘が監禁されていたんだと声を潜めた。中国で反戦同盟の活動をし、帰国後キャノン機関に拉致され1952年に解放された鹿地はスパイの疑いをかけられ、電波法違反で起訴されていた。鹿地亘が最終的に無罪になるのは、1969年だったから当時はまだ事件の記憶は生々しかった。
そして、キャノン機関が狙った反戦同盟の資料をキャノン機関に奪われる前に、公開暴露しようとしたのが村松らの企みであり、その資金調達をしたのが山さんだった。彼らは今となっては定かではない秘密の場所でマイクロフィルムに撮り一部を鹿地にわたし残りをK書店を通じ日米の大学などに売りさばき資金を回収した。キャノン機関を出し抜くのだから抜け目はないのである。

 

生意気だった僕はいくつかの勤め先をしくじりクビになった。他人の会社に勤めるからクビになるんだ、自分の会社ならクビにはならんだろうくらいの軽はずみで出版社を起こしたのが1979年だった。確かにクビにはならないが、足が抜けなくなると知るのはのちの話である。
1980年前後に創業した皓星社、五月社、JCA出版、批評社、鹿砦社、論創社(五十音順)で、「弾の会」という会を作って共同でDM『弾』を発行していた。この頃、中堅の出版社の団体として「梓会」という老舗があり、「NR出版協同組合」の活動が目を引いていた。「梓会」は「帰らじと兼ねて思えば梓弓亡き数に入る名をぞ止むる」という楠正行が高師直との四條畷の決戦に討ち死にを覚悟で出陣した時の辞世の句からとったもの。NRは「ノーリタン」の意味だと聞いた。どちらも、「行ったきり帰ってこない」という「返品はいやよ」という含意であるが古典である『太平記』からとった梓会の由緒正しさや英語のNR協同組合に比べ我々の「弾の会」は、行ったきり帰ってこない「鉄砲玉のお使い」からとったわけでいかにもチンピラ然としていた。(名前といえば、「鹿砦」という不思議な名前はバリケードのことで、当時、この名前はカッコイイと皆羨んだものだった)
しかし、機関誌『弾』の5号では、小零細出版社の意義と意志を自覚し「そのような〈意志〉を持った零細出版社の集まりである〈弾の会〉は、しかし共同のDMの発送という極めて経済的な契機から生まれました。それ故〈弾の会〉とは何なのか、自らにすら答えられないまま大海の中を彷徨ってきましたので、現在の立脚している地点の確認や、今後の〈弾の会〉の航路が不鮮明なままかじをとってきたといえます。しかし〈弾の会〉が出航してから10ヶ月、〈弾〉通信もNo5を数えるようになり、そろそろ私たちの航路を設定する必要に迫られています。ですからここ2~3ヶ月私たちはコンパスを持ち海図を広げながら、〈弾の会〉の逝くべき方向性を論議しています。そしてその徹底的な論議の中から、今までの経済的必要性から結集した<弾の会>から脱皮し、新たなる地平を獲得していきたいと思います」と張り切ったものの「新たなる地平を獲得」するまえに弊社は脱落し会もやがて消滅した。
とはいえ、〈弾の会〉6社のうち4社が今も活動していて、二社のうちJCA出版は云わば「転進」だから死屍累々たる出版業界の中にあって生存率は悪くないだろう。
こうした一方で、いかにも能天気な記録もあって苦笑する。「5年前、論創社の代表森下氏と、薄暗い喫茶店で、五年後には何十点の本を出して、一点につき○冊売れれば軌道に乗り、資金繰りは楽になり、10年後には新刊を出さなくても在庫で食えるから仕事などしなくていい。これで我々の老後は安定だ。などという馬鹿な計算をしていました」(〈JCA通信〉『小出版社から-創業五年誌』(創林社 1983年)から孫引き)
薄暗い喫茶店で能天気な会話をしていたという二人については強烈な思い出がある。
火の国の女高群逸枝といえば、アナキストで女性史研究の草分けという評価が一般的だが、没後編まれた全集は夫・橋本憲三の作為が目立ち都合の悪い論文(戦争中の翼賛的文章)は収録されなかったと言われる。そこでJCA出版の根来君は、出版人としての正義感(?)からその部分を編纂収録した論集を作ってしまった。無論、橋本氏は許可しないだろうが裁判になればその次第が明らかになるし、それを嫌って橋本は黙殺するだろうと言って平然としていてその通りになった。
論創社の森下君は、資金が尽きたから取引先への支払いは今月から停止すると宣言した。支払日に手形を切ってその引落に汲々としていた僕は、え、そういう事ありとびっくりしてしまった。無論払わぬままで済むはずはないから、その後どのように交渉したのか知らないけれど。しかし、足りない金を闇雲に調達しようと四苦八苦していた僕らを尻目に、取引先との交渉によって乗り切ろうとする、つまり、問題を金ではなく交渉力で解決しようとしたのである。これは頭で考える以上に簡単なことではなく度胸のいることである。いずれにしても二人とも腹が据わっていると言わざるを得ない。JCA根来くんの転身後の活躍、論創社の今日の興隆を見るにつけ、当時、三十そこそこの青年だったと思うと、今日の両君は双葉より芳しかったのである。

 

そんなこんなしているうちにあの事件が起こった。
1987年4月港区のゴミ捨て場から発見された偽一万円札事件が、上野の宝石商殺しに発展し、これに巻き込まれた我々より少し先輩のS社が消えていった。犯人は「地方の選挙に見せ金が必要だ」としてS社に印刷所を紹介させたのだという。事件の主犯は本名武井遵と言って北原綴という自称作家だった。武井は岩波文庫の『朝鮮詩集』の訳者金素雲と日本人女性との間の子供で、S社から何冊も本を出していた。あまり売れそうでもなく名うての編集者のS社の代表が進んで出版するような本でもなかった。これだけ自費出版を出されたら、一万円札の印刷を断りきれないよなあと仲間と話し合った。S社は、創業五年目に『小出版社から』という「社史」を出版している。それによると5年間の出版点数、印刷費、販売部数、返品部数など事細かに記録している。毎日の資金繰りに追われ、数回に及ぶ引越しを経た弊社などは当時の記録など全くない。このような几帳面で数字に誠実なS社だからこそ、逆説的に金とそれに絡む情実に迫られ魔が差したのではないか? この時S社が金の魔力に引き込まれず、森下くんのエピソードを教訓にしていたらと思わざるを得ない。(武井遵は無期懲役になったが既に出所しているはずである)

 

このように、僕らが駆け出しの頃の零細出版界は、犯罪とも非合法とも地続きのやばい業界だったのである。