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矢牧一宏 Kazuhiro Yamaki
 
矢牧一宏関係出版社と出版物仮目録
矢牧一宏年譜

1926(大正15)

1月18日、東京府牛込区弁天町100番地に、父・章、母・静江の次男として出生。章は愛知県出身の海軍大尉。静江は富山県出身。兄。一元 (大正13年7月12日生まれ)
1929(昭和4) 4月,杉並区天沼2-125に転居。これよりさき章、海軍大学甲種学生(昭和3年11月)
1930(昭和5) 0月7日、弟・一成出生。父、海軍少佐。連合艦隊(長門)参謀。
1931(昭和6) 章、海軍大臣秘書官。霞ヶ関の秘書官官舎に転居。一元、日比谷小学校に転校。
1932(昭和7) 3月3日、弟・一成肺炎で死去。4月、日比谷小学校入学。
1933(昭和8) 12月、章、駐米大使館付武官補佐官。杉並区天沼3丁目に転居。
1934(昭和9) 4月、兄とともに番町小学校に転校。兄の同学年に遠藤鱗一郎。7月12日、妹・令子出生。
1936(昭和11) 2月、父帰国。軍令部第3部第5課兼海軍大学校教官。
1937(昭和12) 兄、遠藤鱗一郎、府立一中入学。
1938(昭和13) 2月8日、弟・一信出生。府立一中入学。野球部。同学年に、いだもも、岩崎呉夫、伊藤荘吉、大坪健一郎、木下航二、矢野久義。野球部の後輩に加賀山朝雄。
1943(昭和18) 府立一中卒業。成蹊高校文甲入学。同学年に佐々克明、乗杉孟。恩師に中村草田男。兄、八高文甲入学。
1944(昭和19) この頃、創作活動に没頭。西荻窪に下宿。丹生ひろ子と交際。10月15日、父海軍少将。
1945(昭和20) 弟妹名古屋に疎開、父、海軍兵学校教頭。兄、東大経済学部入学。 3月、宗左近(古賀照一)中村光夫をいいだももと訪問。終戦直前、田辺彰一郎、いいだももと下呂温泉に遊ぶ。 昭和20年春先 いいだももと太田一郎の下宿を東松原に訪ねる。遠藤鱗一朗(館山航空隊)と再会。 集まったのは、中村稔、網代毅、中村徹雄、松山(植物学者)。 秋ころ。いいだももを中心に、雑誌の刊行準備をしている時、再び遠藤とあう。暮近く、竹山道雄の紹介で、鎌倉にいいだもも、石川吉右衛門、遠藤鱗一朗、中野徹雄らと岩波茂雄をたずねる。(『世界』1978年4月号座談会)矢牧の記憶では「私らの若いころは、藤村操にしても安部能成にしてもみな本を読みまくったり旅をしたりして人生について考えたものだ。本を出すなんてことは先輩に委せておいて君らはもっと勉強せよ」と叱咤された。
1946(昭和21)

7月「世代」創刊。世代同人・相沢諒、網代毅、太田一郎、太田スミ子、大野正男、岡富久子、小川徹、甲斐田洵子、菅野昭正、倉田正也、栗田勇、佐久間穆、鈴木(武田)百合子、都留晃、殿村郁子、中野徹雄、中村祐三、中村稔、中村雄二郎、橋本一明、浜田泰三、東野修子、日高晋、本田喜恵、八木柊一郎ら。カメラアイ(「世代」のコラム)執筆者中村真一郎・加藤周一・福永武彦、武田泰淳、中井英夫、白井健三郎、金達寿らの知遇を得る。出英利、村井志摩子、高原紀一、井坂隆一らと交遊。「葦」同人吉行淳之介、「世紀の会」中田耕治をしる。「らむぼお」「龍」(鍵山喜美)が根城。 春、白木屋の5階にあった、鎌倉文庫をたずねる。中山義秀、高見順に会う。高見順が 「私ども商売人といたしましては・・…」というのに驚く。 結局『世代』の、発行所は目黒書店となる。

昭和21年7月 『世代』創刊。発行部数創刊号30000、2号25000、3から6号20000。実売創刊号5割、2から6号は7.5割。第2次、7から10号については7が5000、後は3000.(さすが出版経営者、こうしたことはきちんと抑えている)暮。六号で用紙事情により休刊。編集長遠藤。八木柊一郎「放心の手帖」、小川徹「人格からの出発-宮沢賢治論」。遠藤周作と森嶋通 夫の投稿を没にする。原口統三「ショパンの杖」は七号掲載の予定だったが、休刊のため『二十歳のエチュード』(46.6前田出版社)の収録。 今から三十数年前に、荻窪駅から省線に乗り降りする美少年が数人はいた。南口に、県洋二氏(振付家)、黛敏郎、哲両氏のご兄弟、北口に矢牧一宏の諸氏であった。 当時は改札口が、今のように地下にあるのではなく、バス停と地続きのところに、省線への、出入り口があり、木造の階段を上って、渡り廊下を通 って、階段を下りては、上り下りのプラットホームを変えるようになっていた。 その頃は、自家用車を持っている人が少ない頃で、この美少年たちも、省線を利用していたので、行動範囲を秘かに探索すると、改札口にまっていれば、必ず会えるようになっていた。 矢牧さんとは、東京女子大の同級生の本田喜恵さんに連れられて、はじめていった「世代」の集まりで出会うことが出来た。 たしか、お茶の水の目黒書店の一室だったと覚えている。その時の矢牧さんと飯田桃(いいだもも)さんの印象が鮮烈だった。 それ以前に、私は上級生のお供をして東大近くにあったYMCAに、木下順二先生をお尋ねして、和服を召したその知的な美青年ぶりに失神しそうになった経験があったが、この矢牧、飯田両氏は、まるで世界文学全集の中に出てくる作家達の、プロフィールに類似した、甘酸っぱい天才美少年たちのような、ひらめきを感じさせられたものである。(村井志摩子)

1947(昭和22) 9月復刊1号。復刊2号 GHQにより発禁。中野徹雄「紹介-ドイツ社会学者会議報告-革命について」
1948(昭和23) 『世代』第二期編集長。兄、日銀入行。
1949(昭和24)

6月頃、内藤隆子世代同人となり内藤家との交際始まる。

11月14日、兄・一元結核で死去。 「兄貴は哀しい奴だ。僕と同じように、親父とおふくろには参っていたからね。しかし、自分がでんとした女房を貰って家を守るから、おまえは好きなことをしていいと言ってくれていた。その兄貴がいなくなったんじゃあ、僕はどうしようもない」」というのです。(内藤隆子)

秋、鎌倉文庫の倒産にさいし、目黒書店で『人間』を引き受けるか『世代』を復刊するかの話し合いが持たれ、人間に決定。出席、目黒書店・目黒四郎、目黒謹一郎、世代・矢牧、中野徹雄、森清武、倉田正也、オブザーバー・竹山道雄、中村光夫。場所は中野の竹山健 三郎(竹山氏令息)邸。話し合いの後、岩本真理と小林健児のヴァイオリン演奏があったという!

1951(昭和26) 澁澤龍彦(東大生)を知る。大谷一夫、瀧澤森(従弟、板津直成の高師付中の同級生・のち「風花」店主)らと交遊。
1952(昭和27) 出英利、鉄道事故死。林聖子(のち「風紋」店主)。
1954(昭和29) 「米川サロン」に出入り。米川丹佳子に坂本一亀を紹介され河出書房入社。8月頃退社。 米川夫人の依頼で、彼が河出に入社したのは昭和二十九年の春ごろでしょうか(はっきりいたしません)、出版の私のもとで吉行氏の作品交渉にあたらせたのですが、先約がありうまくいきませんでした。そのうちに社に出なくなったので問いただしたところ(略)その後、拙宅にみえてよく話しあった記憶があり、社長に頼んで雑誌「文藝」(巌谷大四編集)に配属してもらったのですが、一ヵ月後に文藝部から返されました。それからまもなく河出をやめたのです。(坂本一亀)
1957(昭和32) 6月東京書籍株式会社入社。
1958(昭和33)

3月東京書籍退社。

遅刻名人の彼が、お固い教科書出版社に就職したことがある。その話を聞いたなかまは「へえー、矢牧が…」と一言、複雑な顔をしたものだ。 ある日の夕方、新宿辺で矢牧に出会った僕が、「よう早いな、もうお帰りか」と声をかけた。 「いやあ、一寸遅くなってね。これから行こうと思っているんだ。――ところで、ビールでも飲もうよ」、矢牧は誠に落ち着いたものだった。 早速この話を、僕は誰彼となく吹聴して廻ったが、聴き手の感想は一言。「矢牧だなー」感心したような、呆れたような表情で納得したものだった。(都留晃)

1961(昭和36) 株式会社七曜社設立。埴谷雄高、堀内誠一、宮原昭夫、島村直子、島村典孝、太田文平を知る。この頃、林聖子「風紋」開店、呑み仲間に粕谷一希、種村季弘、松山俊太郎。
1964(昭和39) 白井健三郎の紹介で元木住子と交際(1965入籍)。七曜社倒産。債務整理の過程で芳賀書店社長芳賀章を知り芳賀書店入社。安岡章太郎、武智鉄二、夏目伸六、佐々木基一、丸岡明、草野心平、奥野健男、花田清輝、檀一雄、野坂昭如、大島渚、寺山修司らを知る。日高年子、飯田玲子ら。 七曜社が倒産し、在庫処分を八木書店が手がけた縁で、昭和39年、芳賀書店入社。 田中英光全集の編集にたずさわる。ただし、企画そのものは矢牧の入社以前にあり、芳賀書店では、進行がいきづまっていた。 解題担当・島田昭男、編集担当・元木(矢牧)住子、装丁・杉浦康平。 この後、原民喜全集、発想シリーズを手がける。 「編集者としての矢牧さんは元木さんという良きパートナーを得て、精力的に仕事全般 をまとめていった。……矢牧さんとはよく飲んでよく議論した。 二人とも若く血気盛んなころで、翌日は会社へ姿を見せないなんていうことも何度かあった。住子さんの話では、そんな時は家でカッカしながらも仕事をしていたそうである」「ユニークで甘ったれ秀才的な矢牧さんの風貌」(芳賀章)
1965(昭和41) 「原民喜全集」「今日の状況叢書」「田中英光全集」(芳賀書店)。津田道夫、三浦つとむ、栗原幸夫、島田昭男を知る。住子夫人長男・経(おさむ)出産。
1967(昭和42)

芳賀書店退社。神彰をオーナーに天声出版設立。副社長。 ☆天声出版のスポンサーは神彰 神彰って、ローハイドの太平洋テレビ、銀座の高級クラブ・アポロンの清水昭と同じタイプの人間かなあ? 時期的に見ると、天声出版は神彰の「呼び屋」時代の最後の時期にあたる。 ほかに比べ天声出版の出版物の点数も少なく、活動期間の短いのもうなずける。 なお、この天声出版は「天声人語」から神彰の命名だという。 そりゃあ、矢牧の趣味じゃあないよな。

【神 彰】 (サンケイ、訃報欄) 神 彰氏(じん・あきら=元アート・ライフ社長、作家の故有吉佐和子さんの元夫)28日午前4時32分、心不全のため死去、75歳。北海道出身。自宅は神奈川県鎌倉市鎌倉山2の26の18。葬儀・告別 式は未定。喪主は長女、清水玉青(しみず・たまお)さん。
昭和31年、旧ソ連のドン・コサック合唱団を招いたのを皮切りにボリショイ・バレエ団やレニングラード・フィルの来日公演をプロモートし、「呼び屋」として勇名をはせた。37年には作家の有吉佐和子さんと結婚したが、2年後に離婚。その後、アート・ライフ社を設立、居酒屋チェーン「北の家族」の経営で活躍した。

(1998年7月1日朝日新聞夕刊) 「元国際プロモーター神彰さん5月28日死去、75歳、6月20日告別 式 行動力で大物の公演実現 紺色に輝くクライスラーを小道具に、あっという間に三千万円も借りまくったんだ−−−。七年前、取材で三カ月ほど通 い詰めたとき、最初に驚かされたのは、その錬金術の話だった。一九五三、四年当時のことである。描いた油絵が売れず、東京のアパートで、仲間とホラ話をしては、憂さを晴らす生活が続いていた。ある日、仲間の一人がロシア民謡を口ずさんだ。歌うのは欧米で人気を博しているドン・コザック合唱団だという。日本人も必ず熱狂する、と直感した。国際電話で直談判し、来日の了解を取りつけた。だが金はない。友人たちから小金を集め、それを元に銀行から借りた。そして、当時は珍しい高級外車を買い、大金を貸してくれそうなところに乗りつけたのだという。 「呼び屋」、いまで言うプロモーターだった。五〇年代半ばか六〇年代末にかけて、ボリショイ・バレエやレニングラードフィル、アート・ブレイキーなどを次々呼んだ。物おじしない一人の青年が、体当たりで話をまとめ上げる。「戦後の日本で起こった奇跡のひとつ」と、大宅壮一は評した。 海産物商の四男で、旧制函館商を卒業し、旧満州に渡った。引揚げ後、郷里の新聞社に就職したが、学生のころから抱き続けた家への夢は断ちがたく、五〇年、上京した。 「呼び屋」の仕事柄、好不調の波は激しい。彼も挫折と再興を繰り返した。一時マスコミの表舞台から姿を消したが、七三年、居酒屋チェーン「北の家族」を開いて復活した。ブームの先陣を切ったとき、周りは「やっぱり」と、その才覚に納得した。喪主は長女で作家の有吉玉 青さん(三四)。二年で離婚した作家、故有吉佐和子さんとの間の一粒種だ。嫌いで別 れたわけではない。有吉さんの作家活動に支障がないようにという、強引な配慮だった。八年前、二十五年ぶりに父娘は再会した。玉 青さんは告別式で、こうあいさつした。「初めはジンさんと呼んでいましたが、『おやじ』になりました。彼が父親だからではありません。『おやじ』を好きになったからです」 かつて時代の寵児ともてはやされ、怪物とまでいわれた男は、がんと闘った晩年、まな娘にありったけの思いを寄せる普通 の父親になっていた。(社会部小野高道)」

1968(昭和43) 内藤三津子と松山俊太郎、澁澤龍彦を訪ね『血と薔薇』(隔月刊)創刊。澁澤龍彦責任編集、AD堀内誠一。司修を知る。
1969(昭和44) 3月、天声出版退社。加藤純子(共同生活者)白血病で死去。6月、都市出版社設立(友人伊夫伎英郎と共同)。社員中村邦生ほか4人。季刊文芸誌『都市』(責任編集田村隆一)創刊。8月『家畜人ヤプー』出版。阿部良雄、高橋昌男、伊東聖子(詩歌句)。内藤三津子・薔薇十字社創業。
1972(昭和47) 6月都市出版社倒産。薔薇十字社相談役。
1973(昭和48) 7月薔薇十字社倒産。
1974(昭和49) 出帆社創業。
1977(昭和52) 2月、出帆社解散。5月、編集プロダクション「アールヌーボー」顧問。
1978(昭和53) 2月19日、『世代』初代編集長・遠藤鱗一郎死去。編集プロダクション「ブックアトリエ」設立。
1982(昭和57) 8月28日父・章逝去。11月19日、肝臓ガンで死去。享年56。21日、中野宝仙寺で告別 式。喪主・矢牧一信、内藤三津子。葬儀委員長・いいだもも。進行・都留晃。弔辞・安岡章太郎、中村稔、佐々克明、森清武。戒名・天真院文鑑宏照居士。